HIV/AIDSの歴史
1983年

ウイルス発見

1983年

1月1日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン初のAIDS専用外来診療所を開設

カリフォルニア大学サンフランシスコ校と提携し、サンフランシスコ総合病院に世界初のAIDS専門外来クリニック「86病棟」が開設された。1983年6月には、入院用AIDS病棟5Bが開設される。

AIDS治療のパイオニアであるポール・ボルベルディング博士、ドナルド・エイブラムス博士、コンスタンス・ウォフシー博士によって設立されたこのクリニックは、AIDS患者の治療に情熱を傾けるスタッフが集った。

思いやりと敬意をもって患者に接すること」「1つの施設でさまざまな医療・福祉サービスを提供すること」「地域の保健所やコミュニティ組織と密接に連携すること」を重視し、医療だけではなく快適にすること、AIDSとともに生きるためのさまざまな課題に対処するために必要なリソースを提供すること、厳しい社会的スティグマに直面している患者が尊厳をもって生き、最後を迎えることを可能にすることに焦点を当てた全人的アプローチの「サンフランシスコ・モデル・オブ・ケア」を開発。

この思いやりのあるモデルは、AIDS患者の治療における卓越した基準を定め、世界中の医療関係者に採用された。

今後このクリニックでは、年間数千人の患者を診ることになった。

参考・引用

1月4日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(海外)市民運動など民間の動き企業の動き薬害エイズ関連セクシュアルマイノリティ関連米国疾病管理予防センター(CDC)、国の血液供給をAIDSから守るための公開会議を開催したが決裂

米国疾病管理予防センター(CDC)の働きかけにより、保健省の公衆衛生局(PHS)次官補のエドワード・ブラント・ジュニア博士は、CDCのジェフリー・コプラン博士を委員長とする、国の血液供給をAIDSから守るための公開会議をアトランタで開催した。

この会議には、米国赤十字社(ARC:American Red Cross)、米国血液銀行協会(AABB:American Association of Blood Banks)、全米血友病財団(NHF:National Hemophilia Foundation)、全米ゲイタスクフォース、製薬会社協会、地域血液センター協議会、州・準州疫学者、国立衛生研究所(NIH:National Institute of Health)、食品医薬品局(FDA:Food and Drug Administration)などのグループの他、この問題に関心を持つ患者、医師、メディアなど関連する主要な団体や個人、約200人が集まった。

会議でドン・フランシス博士などのCDCの科学者たちは、血液銀行に対し、ドナーにリスク行動を質問し、献血を一連の検査にかけるなど、ドナーのスクリーニングを実施するよう要請したが、AIDSは潜伏期間が長く、その実態もまだ解明されていなかったため、出席者全員が、この集団における高い疾病発生率を過小評価していた。

CDCは、これまでのデータを共有し、高リスクのグループをドナー・プールから除外、もしくは代替検査によるリスクの軽減を目論んでいたが、各グループは1982年7月27日のワシントンでの会議で述べたのと同じような懐疑的な理由だけではなく、CDCのデータは不十分である、表現が過剰だなどとCDCを非難した。

血液銀行各社は、「輸血は命を救う行為であり、命を救うためには多少の副作用は許容される」、「たった8人の血友病患者と1人の輸血患者が罹患しただけの稀な疾患が、血液政策の変更を強いることはないはずだ」と、強硬に反対。CDCの証拠はHIVが血液を媒介する病気であることを決定的に示していないと判断、感染の可能性のあるドナーを選別することを拒否

血液銀行の医師たちは、性感染症クリニックに通う同性愛者について、B型肝炎抗体とAIDS症例の相関を示したCDCのデータの妥当性に疑問を呈した。

同様に、依然として食品医薬品局(FDA)の一部も血友病患者がリスク・グループのひとつであることに納得していなかった。

血液銀行組織は、食品医薬品局(FDA)の責任とされる領域にCDCが入り込んでいることに不快感を示し、米国赤十字社の幹部のメモには「CDCは、その存在を正当化するために、より大きな伝染病を必要としているため、信用できない」とあった。

一方、血漿メーカー各社は、自社製品からHVIが感染している可能性が高いというCDCの見解に同意した。そして、供給元の切り替えや、血漿中のウイルスを不活性化する新しい方法の導入に迅速に取り組んだ。しかし、古い製品も市場に出回ることになり、結局、市販の血漿で多くの人が感染することになった。

血液や血漿をドナーから取り出し、別の人に安全に供給することは複雑なプロセスが必要であり、赤十字社のような血液銀行は、その供給のほとんどすべてを自発的な献血から得ている。米国赤十字社(ARC)は、提供された血液を処理し、病院に配布し、病院は対価を支払う。

米国では毎年約1400万単位の献血が行われ、米国赤十字社が約45%、血液銀行が約42%、病院が11%、残りわずかな血液は輸入され、年間約360万人が輸血を受けている。

1970年代、血液の収集と輸血は、特に供給される血液に肝炎が蔓延しているなど、さまざまなリスクを抱えてた。1982年後半、血液製剤を通じて新しい病気が蔓延している可能性を示す証拠が出始めると、事態はより複雑になった。

血液銀行の科学者たちは、AIDSが血液供給に対する脅威であることを認めたが、そのリスクを測定することは困難であると判断。米国の監視システムは、AIDSのような潜伏期間の長い病気を特定するのに適していなかったと言われている。

参考・引用

1月7日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン米国で初の女性のAIDS症例

米国疾病管理予防センター(CDC)の「羅漢率と死亡率週報(MMWR)」が、女性のAIDSの最初の症例「後天性免疫不全症候群(AIDS)男性の性的パートナーの女性における免疫不全(ニューヨーク)」を報告。

記事では、AIDSと診断された男性の性的パートナーでだった女性2人の症例を紹介。

1人目のケースは、37歳の黒人女性が1982年6月に体重を減らし始め、その1ヵ月後に口腔カンジダ症とリンパ節の腫れを発症。検査の結果、彼女はニューモシスチス・カリニ肺炎に加え、リンパ球減少症、Tヘルパー細胞の枯渇を患っていた。彼女は静脈内麻薬の使用者ではなかったが、1976年からの性的パートナーに静脈内麻薬の乱用歴があったという。女性のパートナーは1982年11月にAIDSで死亡していた。

2人目の症例では、23歳のヒスパニック系の女性が1982年初頭にリンパ節の腫れを発症した。検査では、免疫グロブリン値の上昇、リンパ球減少、T-ヘルパー細胞数の減少、T-ヘルパー/サプレッサー細胞比の減少がみられた。彼女には、免疫抑制に関連する病気や治療の既往はなかった。1981年の夏以来、彼女の唯一の性的パートナーは、1981年にAIDS関連症状を発症したバイセクシャル男性であった。

参考・引用

1月13日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン企業の動き米国血液銀行組織、献血時の性的指向についての質問に反対する共同声明を発表

アトランタで行われた1月4日の2日後、米国血液銀行協会(AABB:American Association of Blood Banks)、米国赤十字社(ARC:American Red Cross)、地域血液銀行協議会(CCBB:Council for Community Blood Banks)らの血液銀行組織は、ワシントンDCでAIDS対策タスクフォースを結成、1月13日に共同声明を発表し、性的嗜好に関する質問を用いたドナーのスクリーニングに反対することを改めて表明。

参考・引用

1月14日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン企業の動き薬害エイズ関連全米血友病財団(NHF)の医科学詰問委貝会(MASAC)、血友病患者のAIDSの予防に関する勧告を発表

全米血友病財団(NHF)は会議で発表されたデータに震撼し、血液業界と会談、「リスクのあるドナー」に対する厳しいドナースクリーニングを行うよう圧力をかけた。

アルファ・セラピューティクス社は1982年12月にドナーのスクリーニングを開始し、他の米国企業もすぐにこれに続いた。

しかし、因子濃縮液に使われる血漿の20%以上は、性的嗜好に基づくスクリーニングを拒否した血液銀行から入手されていた。全米血友病財団(NHF)は、代理テストによるスクリーニングを強く求めましたが、成功しなかった。

全米血友病財団(NHF)のNHF医科学詰問委貝会(MASAC)は、選択的手術の延期、新生児や凝固因子への曝露経験のない患者への凍結沈殿物の使用など、凝固因子使用を減らすための多くの重要な勧告を発表。

ただ、NHFのMASACの一部の有力なメンバーは、エイズがせいぜい非常にまれな合併症であり、血液を介する病気であることにまだ納得しておらず、他の血友病患者は、かかりつけ医から別のアドバイスを受けない限り凝固因子濃縮液を使い続けるべきであるという妥協案を強要していた。

血友病治療医に対して

クリオ製剤の対象としては、4歳児以下の新生児、新しい患者で従来の濃縮製剤で治療されていない者、軽症例等。一方、濃縮製剤で治療してきている者について、使用継続。

濃縮製剤メーカーに対して

献血するドナーへのスクリーニング等の実施、濃縮製剤のウイルス不活化製法の開発努力、プール血漿の規模を小さくすることの実現可能性、供血スクリーニングを経ていない血漿の購入を回避すること等を勧告。

参考・引用

1月26日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連CDCと赤十字の見解が対立、血液検査の遅れに

1月4日に行われた米国疾病予防管理センター(CDC)主催の血友病患者の日和見感染症に関する会議の後、米国赤十字社から血液供給製品のスクリーニングに強く反対する内容のメモが発表された。

米国赤十字社(ARC)の1月4日の会議後の社内メモで「CDCはAIDSをごまかし続けるだろう」と非難。

「CDCが存在を正当化するために、より大きな疫病が必要になってきていることは、長い間指摘されてきたことである。CDCが誤っているということを、血液供給業界が結束して明確に証明しない限り、一部の国民は血液供給業界が公共の利益に反しているように見るだろう」と書かれています。

1982年の中頃から後半にかけて、血友病患者のAIDS症例が初めて報告され、乳児での最初の輸血関連AIDS症例も含まれていたことから、ドナーのスクリーニング問題が発生した。

そのため、1982年12月から1983年12月にかけて、血液や血液製剤によるAIDS感染の脅威を減らすため、血液供給業界が新しいドナーのスクリーニングと、供給延期を決めるための2つの重要な会議が開催された。

1つは、1月4日のCDCが招集した公衆衛生局の会合である。このとき、血液供給業界は、血液供給源に感染性物質が存在する可能性に関するデータを初めて入手した。CDCの科学者たちは、血液銀行に対し、特定のドナー・スクリーニング対策(ドナーにリスク行動について質問する、献血を一連の検査にかけるなど)を実施するよう勧告した。

しかし、CDCのデータの妥当性に難色を示し、CDCがAIDSに関する信頼できる情報源ではないと。会議の後、米国赤十字の職員は、CDCからの勧告に抵抗するよう同僚に勧めることになる。

血液銀行がドナースクリーニングの実施に抵抗したことは、AIDSの初期段階での感染抑制についての重大な失敗と見なされるようになった。

もうひとつは、1983年12月15日から16日にかけて、米食品医薬品局(FDA)の血液製品諮問委員会が、HIVの代替マーカーテストでのあらゆる可能性を検討する会議の開催である。この会議は、CDCが血液供給の安全策を講じる手段として、血液スクリーニングを実施する必要性を訴える2度目の試みであったという点で重要な会議だった。

この2つの会議が開催された間の1年間は、血液銀行はスクリーニング無しで献血を集め続けていた。

参考・出典

2月6日

海外での出来事報道・マスコミの対応ニューヨーク・タイムズ紙、AIDSに関する初の詳細な記事

ニューヨーク・タイムズ紙が、AIDSに関する初の詳細記事「A New Disease's Deadly Odyssey(新たな病の死のオデッセイ)」を発表。

この記事では、「今世紀で最も毒性の強い伝染病」であるウイルスが、「大都市の同性愛者コミュニティ」で蔓延し、血友病患者の死因の第2位を占めるようになったことを説明。

米国疾病管理予防センター(CDC)のAIDS対策本部長であるジェームス・W・カラン博士は、ニューヨーク・タイムズ紙の記者に対し、AIDSはアメリカの主流に移行しつつあり、科学者はいまだに病気の原因や蔓延を止める方法を特定できていないと語った。

「AIDSの発生率は過去1年間でほぼ3倍になり、週に約7件程度だった新規感染者数が週に20人以上になっている」と、カラン博士は最近発表されたデータを引用し、「1982年12月にCDCが受け取ったAIDS患者の報告数は92件で、前月に比べ約3分の1増加している」と述べている。

またこの記事では、CDCがAIDSの原因を特定するための苦心を紹介し、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミの4カ所の発生地の焦点を当て、20名の常勤の医師と、80名の非常勤の専門家の協力で研究が行われていることを紹介。

研究者たちは、この病気の広がりを広う追跡することができると、記事は述べている。

1981年の春から、ニューヨーク市の臨床医たちは、通常は地中海沿岸地方の高齢男性に見られる、極めて稀な癌であるカポジ肉腫を発症している、驚くほどの数の若い男性患者を見かけるようになった。

ほぼ同時に、ニューヨーク市内の感染症専門医は、別の希少疾患であるニューモシスチス・カリニ肺炎の急増を指摘していた。毎週、市衛生局が主催する医師が最も困惑している症例を発表する市全体の感染症会議で、医療関係者がこれらの症例について情報を共有するようになった

1981年半ば、米国疾病管理予防センター(CDC)はこれらの異常な症例を調査するための特別タスクフォースを結成し、6月と7月に「羅漢率と死亡率週報(MMWR/Morbidity and Mortality Weekly Report)」に最初の調査結果を発表した。当時確認された116人の患者のうち、約30%がカポジ肉腫、約50%がニューモシスチス・カリニ肺炎、約10%がその両方であった。残りの10%は、通常、免疫抑制患者にも起こる異常な感染症を持っていた。

比較の結果、13人の症例者のうち9人に共通の性的接触者がいたことが判明した。これがいわゆる「ロサンゼルス・クラスター」と呼ばれるAIDS患者である。その後、ロサンゼルスとニューヨークの間にミッシング・リンクが発見された。ニューヨークの患者が、ロサンゼルス・クラスターの4人の男性とAIDSを発症したニューヨークの4人の男性も性的パートナーであったことが特定された。

広く読まれている記事では、活動家のラリー・クレイマーの言葉を引用した。「ゲイでニューヨークに住むということがどういうことか、あなたにはわからないでしょう。戦時中のようなものだ。いつ爆弾が落ちてくるかわからないんだ。」。

クレーマーは、この1年半で18人の友人をAIDSで失い、さらに12人が重い病気にかかっていると語った。「医師や精神科医は、新しい交際の方法を学ぶよう地域社会に懇願しています。彼らは、亡くなった人たちの名において、デートの仕方を学べと懇願しているのです」とクレイマーは言う。

またこの記事では、全米の血液供給が安全かどうかという問題にも触れている。当時、CDCはAIDSに感染した血友病患者の報告を計8件確認し、うち6人が死亡している。

米国血液銀行協会の輸血感染症委員会の委員長で、エール大学医学部の実験医学教授であるジョセフ・ボーブ博士は、「私は心配で心配で仕方がない」と言う。「しかし、科学者として、私は証拠を見なければならない。そして、その証拠は、普通の輸血はAIDSを感染させないというものです。」

ボーブ博士は、AIDSが確認されてからの2年間に輸血を受けた人の数が2000万人であることを挙げ、「血液によって広がるAIDSの流行はない」と主張した。

CDCのAIDS部門のディレクターであるブルース・L・エヴェット博士は、「リスクは低いように見えるが、大幅に増加する可能性がある」と付け加えた。

記事が掲載された時点で、CDCはAIDS・ウイルスに感染した958人の報告を受けており、365人がすでに発病していた。

参考・引用

3月

海外での出来事国や政府の対応(海外)人物カリフォルニア州のAIDS政策をリードしたスタン・ハデン

カリフォルニア州上院議長代理デイビッド・ロベリの事務所のスタッフだった26歳のスタン・ハデンが、カリフォルニアAIDS諮問委員会の設立と州全体のAIDS教育への資金提供の仕組み作りを主導。

中でも、カリフォルニアAIDS諮問委員会を設立する上院法案910号の成立を監督。この法案には、50万ドルの初期予算が含まれており、保健サービス省を通じて、資金を切実に必要としていた州のコミュニティ・プログラムに割り当てられた。

このプログラムに割り当てられた金額はわずかだったが、州が財政危機のため多くの医療プログラムが予算削減に苦しんでいた時期に、少しでも資金を確保できたことが大きな成果だった。

1983年3月、ロベリ上院議員は上院法案910号のメリットをアピールするため、「AIDSは国家的緊急事態である」とマスコミに語った。

以前は健康だった同性愛の男性、ハイチからの移民、静脈注射の薬物使用者の間で流行しているが、この病気にかかった人の6%は、同性愛者でも静脈注射の薬物使用者でもハイチ人でも血友病患者でもない。

当時、議員がAIDSについて教育を受けるのは珍しいことだった。議員がAIDS対策が急務であることを認識したのは、ハデン氏の働きかけとアドボカシー、そして選挙区がハリウッド地区であったことが大きく影響していると思われる。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校の臨床助教授だったスティーブン・モーリンによって1986年に出版された「What to Do About AIDS(AIDSにどう対処するか)」の「Public Policy and Mental Health Issues(公共政策とメンタルヘルス問題)」の章によると、ロベリ上院議員の法案は、ハデンによって調査・起草されたもので、AIDS危機の初期にカリフォルニア州がとった最初の重要な行動だった。

同じ頃、カリフォルニア州議会は、AIDS研究に取り組むカリフォルニア大学への290万ドルの追加資金を推し進めた。サンフランシスコを選挙区とするウィリー・ブラウン下院議長は、AIDSの原因究明に取り組む大学の研究者たちと会合を持ち、カリフォルニア大学の予算への割り当てを発表。

スティーブン・モーリン談

上院法案910号は、非常に多くのアドボカシーを必要とした。1983年4月、この法案を支持するために州都を訪れた際、1982年12月にカポジ肉腫と診断された友人で精神科ソーシャルワーカーのゲイリー・ウォルシュと一緒になった。AIDSは最近「ニューズウィーク」誌の表紙を飾ったが、私たちが会った議員の半数以上はAIDSという言葉を聞いたことがなかった。

研究の初期のブレークスルーの多くはカリフォルニア大学から生まれ、この努力によって資金が供給された。

例えば、AIDSの原因となるレトロウイルスの発見は、カリフォルニア大学デイビス校で行われたものです。その後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のジェイ・レヴィの研究室で、AIDSの原因となるレトロウイルスが分離された

1985年、ハデンは地域のHIV/AIDSプログラムとサービスに協調的なアプローチをもたらす州法のスタッフとして活躍。カリフォルニア州上院法案1251号は、1986年にAIDS医療プログラムに約1700万ドルの資金を割り当て、さらに、州は連邦予算のうち500万ドル以上を研究プロジェクトと疫学調査に充てた。

立法スタッフたちは、ハデンをカリフォルニアの「非公式なAIDSの皇帝」とみなした。彼は、サクラメントでゲイであることを公言している数少ない人物の一人だった、とジャーナリストのカレン・オカムブは後に『プライド』に書いている。カリフォルニア州議員の事務官や政治家の側近の多くは、自分の性的アイデンティティを公にすることで職業上のキャリアが絶たれることを恐れ、クローゼットに閉じこもったままであった。また、LGBTであることを自覚している選挙関係者や候補者も、まさに破滅の現実を前にして沈黙を守っていた。

参考・引用

3月4日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンCDCが「4Hの病」と発表

CDC(米国疾病管理予防センター)羅漢率と死亡率週報(MMWR)で、AIDSの「最もリスクが高い」と認識している4つのグループ
○複数の性的パートナーを持つ同性愛男性(Homosexual)
血友病患者(Hemophiliacs)
○静脈性薬物のヘロインなどの乱用者(Heroin)
○特に過去数年以内に米国へ入国したハイチ人(Haitians)
の頭文字を取って、4つのHと特定して発表した。

これ以降、医学論文や報道で引用され、これらのグループに属する人々には、汚名が着せられることになった。

ゲイ・コミュニティの多くは、この情報を元々は農業青年グループを指していた「4Hクラブ」と呼び、再定義した。

「4Hクラブ」とは、将来の農業を支える若い農業従事者が中心になって組織され、さまざまな活動を行うグループを指していた。農業の改良と生活の改善に役立つ腕(Hands)を磨き、科学的に物を考えることのできる頭(Head)の訓練をし、誠実で友情に富む心(Heart)を培い、楽しく暮らし、元気で働くための健康(Health)を増進するという、同クラブの4つの信条の頭文字を総称したものだった。

この報告書が発表された当時は、米国の研究者たちはまだこの病気に困惑し、患者の免疫力低下は、血液を介して人から人へと受け継がれる生物学的物質が原因である可能性を探っていた。

CDCはこの報告書の中で、「入手可能なデータは、AIDSの基礎となる免疫調節の深刻な障害は、伝染性の病原体によって引き起こされることを示唆している」と述べている。

さらに、リスクの高いグループのメンバーには、血液や血漿の提供を控えるよう勧告している。

「原因が不明である限り、AIDSの自然史を理解して予防策を講じることは難しい。しかし、上記の推奨事項は、AIDSに感染するリスクを低減するための慎重策である。」と述べている。

参考・引用
海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連疾病管理予防センター(CDC)、米食品医薬品局(FDA)、国立衛生研究所(NIH)、予防対策の共同勧告を発表

疾病管理予防センター(CDC)は羅漢率と死亡率週報(MMWR)で、「AIDSが感染した血液や血液製剤を介して感染しており、出血性疾患患者や血液製剤を使用する人々全体が感染の危険にさらされているとする」と発表し、米食品医薬品局(FDA)、国立衛生研究所(NIH)と合同で、血液供給の安全性を保つために直ちに講じるべき措置を勧告。

米食品医薬品局(FDA)は、凝固因子の熱処理のライセンスの承認を開始。

米国の複数のメーカーが、熱処理した凝固因子の開発を開始し、3月21日にはトラペノール社の加熱第VIII因子製剤を承認。

AIDSの発生状況及び予防対策を勧告(CDC・FDA・NIH)
発生状況
81年6以降1200例以上が報告され、450名以上が死亡
診断後1年以上経過の場合、致死率60%以上
血友病患者は11名
血友病症例について、血液製剤又は血液が原因のようにみえる
AIDS因子を伝播する潜在的能力のある者が現在知られているAIDS症例数よりかなり多い可能性を示唆
数か月~2年の「潜伏期聞」の存在及び今認識されている臨床的疾病以前に伝播していることが考えられる
AIDSの危険性が増大しているグループの1つとして血友病患者が挙げられる
予防対策のCDC・FDA・NIH共同勧告
性的接触の回避
ハイリスク・グループの供血の回避

ハイリスク・グループ:AIDSの症候又はそれを疑わせる兆候がある者、AIDS患者の性的パートナー、複数のパートナーを持つ性的に活動的な同性愛及び両性愛男性、ハイチから米国への移民、現在又は過去の静注薬物濫用者、血友病患者並びにAIDSの危険が増大している者の性的パートナー

血漿、血液のスクリーニング方法の評価の研究等を行う
参考・引用

3月14日

海外での出来事市民運動など民間の動き人物ラリー・クレイマー、「1,112 and Counting」を発表

AIDS活動家のラリー・クレイマーは、AIDSがゲイ・コミュニティに与える影響について、ニューヨーク・ネイティブ紙に辛辣な評価を発表。このエッセイ「1,112 and Counting」で、病気や瀕死のゲイに対する政府の支援の欠如や、AIDSの原因究明における科学の進歩の遅さに対して、そのコミュニティが怒るよう必死に訴えた。

タイトルの「1,112 and Counting(1,112とカウント中)」とは、この病気が流行り始めた頃には41人しかいなかった重篤な後天性免疫不全症候群の症例が、執筆時には1,112例あり、死者も猛烈な勢いで増えていることから付けられた。

もしこの記事があなたを脅かさないなら、私たちは本当に困ったことになります。この記事を見て、怒り、憤慨し、激怒し、そして行動を起こさなければ、ゲイの男性にはこの地球上に未来はないかもしれない。私たちの継続的な存在は、あなたがどれだけ怒ることができるかにかかっているのです。

このエッセイは、クレイマーが生涯をかけて取り組んできた活動やアドボカシーの始まりにすぎなかった。その後、AIDS危機を初めて本格的に描いた戯曲「ノーマル・ハート」を執筆し、公衆衛生政策やHIV/AIDSに対する人々の意識を変えたと広く認められている抗議団体「ACT UP」を設立することになりました。

アンソニー・ファウチ博士は語った。

ラリーがこの国の医療を変えたことは疑う余地がない。そして、より良い方向への変化を促した。アメリカの医学には2つの時代がある。ラリー以前とラリー以後だ。

3月30日には、新たなゲイ雑誌で隔週刊のニュース雑誌「Frontiers」は表紙に「1,112 and Counting」を掲載。

病気で亡くなった20人の友人の名前を列挙した後、クレイマーは「この言葉が印刷される頃には、もう一人死んでいるだろう」と書き、最後に「市民はこの状況に対抗するためにボランティアが必要だ」と訴えた。

アメリカでは1983年末までに、2,807人のHIV感染者とAIDS患者、および2,118人の死者が報告された。

参考・引用

3月21日

海外での出来事国や政府の対応(海外)企業の動き薬害エイズ関連FDA、トラペノール社の加熱第VIII因子製剤を承認

3月4日の血液供給の安全性を保つために直ちに講じるべき措置の合同勧告を受け、食品医薬品局(FDA)は、凝固因子の熱処理のライセンスの承認を開始し、米国の複数のメーカーが、熱処理した濃縮因子の開発を開始。

3月21日にはトラペノール社の加熱第VIII因子製剤を承認。

参考・引用

3月24日

海外での出来事国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連FDA、血漿採集施設に対し「血液提供者からのAIDS伝播のリスクを減少させるための勧告」

食品医薬品局(FDA)は、輸血用の原血漿とヒト血液を採取するすべての施設と血漿誘導体の製造業者に対し、エイズ感染の危険性が高い可能性のある人による血液または血漿の提供のリスクを減らすために取るべき措置を通知。

これらのステップには、AIDSであることが分かっている、あるいは疑われているドナーから採取された製品を隔離し、処分するための標準作業手順を実施することが含まれる。

また、FDAは血液・血漿採取施設に対し、エイズのリスクが高い人には提供を中止するよう通知する教育プログラムを確立し、ドナーを選別する担当者にエイズの初期症状を認識させる訓練を行うよう助言。

また、AHF濃縮液中のウイルスを不活性化するための新しい熱処理を承認したと発表。この処理は、血友病患者をB型肝炎から守り、おそらくAIDSからも守るのに役立つとされた。

参考・引用

4月1日

海外での出来事人物NYのファッション界に衝撃

当時、最も人気があった男性スーパーモデルのジョー・マクドナルドが、ニューヨークでAIDS関連の病気のため37歳で亡くなった。彼は、アーティストのアンディ・ウォーホールや写真家のブルース・ウェーバーの被写体やモデルにもなり、多くの作品を残している。

1970年代からの短髪で筋肉質、健康的で清潔感のある男性像を主導したメンズ・ファッション誌GQの表紙を飾るなど頻繁に登場。最初の男性スーパー・モデルと言われている。

1983年初頭、マクドナルドの最後のモデル活動として、ニューヨーク・タイムズのファッション・サプリメントに掲載された彼の写真を見た友人たちは、マクドナルドの外見があまりにも変わっていることにショックを受けたという。マクドナルドと個人的に交流があったモデルのスージー・ギルダーは、1983年6月に出版されたニューヨーク・マガジンの記事で、「彼はとても老けて見え、目がとても悲しそうだった」と語っている。

Vogue誌が2020年に行ったAIDS危機の回顧展で、ファッションデザイナーのマイケル・コースは、マクドナルドを「AIDSで亡くなった最初の有名人」と回想している。

私たちが最初にHIV/AIDSについて読んだり聞いたりし始めたとき、人々はこの病気に差別がないことを認めたがらなかった。

若くて健康で、清潔な生活を送っていれば、感染することはないだろうと思っていた。そして、ジョー・マクドナルドのような人たちを見て、これは一部の人達のことではないと気づいたのです。そのとき、現実はとても厳しくなったのです。

ファッション業界初のAIDS犠牲者として、マクドナルドの死のニュースは、ニューヨークに衝撃を与えた。

GQの表紙のジョー・マクドナルド
GQの表紙のジョー・マクドナルド
(引用:"A esquecida tragédia do top model Joe MacDonald" POPZONE
参考・引用

4月11日

海外での出来事報道・マスコミの対応Newsweek誌、「EPICEMIC」でAIDSを特集

Newsweek誌は、この日発売の4月18日号で、AIDSに関する最初の特集記事「EPIDEMIC」を掲載した。

記事では、「新しい致命的な病気が国中を駆け回っている。犠牲者の体を衰えさせ、まだ症状が現れていない無数の人の中で潜伏し、医学史上もっとも集中的な調査の引き金となっている」とあり、「AIDSという謎の死の病は、今世紀最大の公衆衛生上の脅威かもしれない」と危機感を表現していた。

記事には、AIDSの犠牲者のミニ・プロフィールも多数掲載され、その中のひとりであるトム・ビスコット氏については、「AIDSと診断された瞬間から、私は怒った。計画を立て、弁護士に連絡し、遺言状を作り、この病気との戦いに取り掛かった。」と掲載している。

1981年に出現して以来、「ゲイの疫病」と揶揄されながら、体の免疫システムを破壊するAIDS(後天性免疫不全症候群)は、1,300人のアメリカ人を襲い、その半数以上がこの1年で死亡しました。そして、治療法はまだ見つかっていない。ヒューストンのM.D.アンダーソン病院と腫瘍研究所のピーター・マンセル博士は、「私の職業人生の中で、これほど苛立ち、落ち込む状況に遭遇したことはありません」と言う。「もう助からないだろうと分かっている人たちが、自分を助けるために何ができるかと尋ねてくる。私は『見当もつかない』と言わざるを得ないのです。

当時はこの新しい病気に携わる科学者の数があまりにも少なく、その分野の研究者は誰もがすぐにニーズに圧倒されていた。

ロバート・ギャロ博士は、Newsweek誌に次のように語った。

私は癌や白血病の研究をしたいが、ひとたび自分がAIDSに関与し、それが知られるようになると、何とかしなければならないというプレッシャーに、押しつぶされそうだった。

記事では、「AIDSが人体に及ぼす影響についてはよく知られているが、『AIDS菌』がどのように人体に侵入してくるのかについては、まだ解明されていない。この謎が解明されない限り、医学的な解決には至らない。そして、その時が来るまで、エイズは感染者にとっての死の宣告であり続けるだろう」と書いている。

この時期、すでに感染している人の多くは自分の状態を知らないため、知らず知らずのうちに他の人に感染させてしまうことがあった。また、この病気に対する誤った認識も蔓延していた。そのため、連邦政府は一般市民への感染拡大を防ぐため、同性愛者の隔離などの抜本的な対策を講じるのではないか、または講じるべきだという不穏な憶測もあった。

NEWSWEEK「EPIDEMIC」特集号表紙
NEWSWEEK「EPIDEMIC」特集号表紙
(引用:"MAGAZINE COVERS" HIV and AIDS 30 years ago: Smithsonian National Museum of American History
参考・引用

4月30日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連輸血後の乳児が日和見感染症を発症

医学雑誌ランセットが、生後6ヶ月後に複数の日和見感染症を発症した乳児の症例について報告。

アカゲザルなどのマカク属のサルから感染するBウイルス病のため、生後数日間に複数回の輸血を受けた乳児が、6ヶ月後に再発性感染症を発症、生後14ヶ月までに肝炎、鵞口瘡、カンジダ皮膚炎、中耳炎、播種性アビウム菌感染症を発症していた。

献血時に元気だった献血ドナーの1人が、17ヵ月後に多発性日和見感染症と後天性免疫不全症で死亡していたことが判明。

症例の臨床検査所見から、輸血により伝達性感染因子を獲得し,後天性免疫不全をもたらし、この血液製剤がサイトメガロウイルス、エプスタインバーウイルス、またはB型肝炎ウイルスではなかったことを示唆している。

参考・引用
海外での出来事市民運動など民間の動きサーカス・イベントで25万ドル集まる

世界最大規模で知られるサーカス団リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスが、AIDSサポート団体のゲイ・メンズ・ヘルス・クライシスのために、一夜限りのスペシャル・イベントを開催し、25万ドルの寄付を集めることに成功した。

HIV/AIDSコミュニティにとって政治的な転換点とされるこのイベントは、約18,000人の参加者を集め、LGBTQと拡大するAIDSコミュニティに活気を与える効果で注目を集めた。

ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、エド・コッホ・ニューヨーク市長のオープニング・スピーチで始まったこのショーでは、「ウエスト・サイド物語」などの作曲でも知られる世界的な指揮者レナード・バーンスタインがサーカス・オーケストラを指揮し、オペラ歌手のシャーリー・ヴェレットが米国国家を歌った。

レナード・バーンスタインが白いディナージャケットを着てマディソン・スクエア・ガーデンを横切り、18,000人のゲイとその友人や家族が歓声を上げる中、サーカス団の国歌を指揮したことは、私がこれまで経験した中で最も感動した瞬間でした

活動家で組織者のラリー・クレイマーは、1989年に出版した「Reports form the Holocaust(ホロコーストの報告)」でそう回想していた。

このイベントの収益は、「ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス」のプログラム支援に大きく貢献した。同団体はすでに25万部のセーファーセックスのパンフレットを配布し、AIDSにかかった男性に家事援助や思いやりのあるケアを提供する数百人のボランティアを組織していた。

しかし、デイヴィッド・ローマンが著書「Acts of Intervention(介入行為)」の中で語っているように、このイベントは単なる資金調達以上のものだった。ローマンは書いている。

1983年、AIDSへの啓発と介入を支持する17,000人以上の人々が、しかもサーカスで集まったことは、政治的に画期的なことであったし、そうでなければならなかった

1983年4月30日の公演ポスター
1983年4月30日の公演ポスター
(引用:"Coming of Age During the AIDS Crisis — Chapter 2" MAKING GAY HISTORY
参考・出典

5月

海外での出来事市民運動など民間の動き人物小冊子「伝染病下でセックスする方法」出版

この小冊子「How to Have Sex in an Epidemic(伝染病下でセックスする方法)」は、自らがAIDS患者であるニューヨーカーのリチャード・バーコウィッツマイケル・カレンによって書かれたもので、セーファー・セックスの実践をいち早く推進し、コンドームの使用に関する鋭いアドバイスやAIDS患者の自己啓発を促すなど、画期的なものだった。

特に、男性とセックスする男性の性感染症の感染を防ぐためにコンドームの使用を推奨した最初の出版物の1つであり、現代のセーファー・セックスの出現における基礎的な出版物の1つと考えられている。

「How to Have Sex in an Epidemic(伝染病下でセックスする方法)」は、ニューヨークに住むゲイの男性に広く読まれ、AIDSに関する混乱と絶望が渦巻く中でゲイ男性がセックスライフを楽しみながら、致命的とも思える症候群を発症するリスクを回避するための包括的なガイドの登場だった。

それから34年後の2017年、デイヴィッド・フランスは著書『How to Survive a Plague(疫病を生き抜く方法)』の「The Story of How Activists and Scientists Tamed AIDS(活動家と科学者がAIDSを飼いならすまでの物語)」の中で、バーコウィッツとカレンのAIDSに関するコミュニティへの啓蒙活動について書いている。

フランスの説明によると、『Sex in an Epidemic』はもともと、バーコウィッツがゲイであることを公表していた主治医ジョセフ・ソンナベンド医学博士の医学的指導を受けて、男性とセックスする男性のための新しい「性の倫理」を提案する論文としてスタートしたという。

しかし、彼とカレンがゲイ向けの新聞「ニューヨーク・ネイティブ」に「性的過剰摂取の結果」という記事を書いたことで不当に得た「セックス否定派」という評判のため、この論文を掲載してくれる出版社を見つけられずにいた。

心の奥底では、自分たちが何者で、なぜ病気なのかを知っている」と、彼らはネイティブ誌の1982年11月8日号に寄稿し、この記事はネイティブ紙の読者だけでなく、トロントの新聞「ボディ・ポリティック」など北米のゲイ雑誌からも怒りの批判を浴び、コミュニティに不必要なパニックを引き起こしたと非難されていた。

それでも、セックスワーカーであったことを公言していたバーコウィッツは、「命を救う方法を見つけたい」という思いをこれまで以上に強くしていた。新しい執筆プロジェクトでは、彼とカレンがネイティブ紙の記事で打ち出したものとは異なるアプローチを取ることにした。

今回、バーコウィッツはセックス・ポジティブなメッセージに重点を置いていた。ゲイがやってはいけないことではなく、ゲイが安全にできる親密さの情報を共有したかったのだ。バーコウィッツが提案した記事をゲイ出版社が拒否したとき、ソナベンド博士は「左翼やフェミニストの政治的小冊子を模した」小冊子として情報を提供することを勧めたとフランスは述べている。

このときに、マイケル・カレンがこのプロジェクトに参加することになった。彼とバーコウィッツは、ソンナベンド博士のオフィスやカレンのロフトに集まって「Sex in an Epidemic」の制作に取り組んだ。カレンのパートナーであるリチャード・ドワキンも、編集内容の組み立てに協力した。彼らのプロセスは、Native紙の記事へのアプローチにおける痛恨のミスを再検討し、ソウル・アリンスキーの「Rules for Radicals(過激派のためのルール)」など、人に影響を与えるための手引きから学んだ教訓を適用するというものだった。

彼らが自ら課した使命は、大げさで、ほとんど過激なものだった」と、フランスは書いている。「セーフ・セックスが流行を食い止めるためには、ゲイ男性のコミュニティ全体に受け入れられなければならない、つまり根本的かつ普遍的な行動の変化である。こうして彼らは「セーフセックス」と呼ばれるものを発明したのです」。

カレンとバーコウィッツは、すべてのアドバイスがセックスに肯定的であるように気を配った。彼らは、さまざまな性行為のリスク評価において、率直で遊び心のある言葉を使い、AIDSやその他の性感染症を防ぐ方法として、当時はまだほとんど使われていなかったコンドームの使用を推進した。さらに、「愛」についての一節も含まれている。

男性が男性を愛することは、ゲイの男性解放の基礎であったが、我々は今、愛や愛情さえも完全に避けることができる文化施設を作り上げた」と彼らは書き、読者が性的な親密さの対象を愛しているならば、たとえそれがほんのわずかな関係であっても、彼らを病気にさせたくないと思うはずだ、と忠告した。

こうして、46ページの「Sex in an Epidemic」初版5,000部には、カレンをはじめとするソンナベンド博士のAIDS患者たちからの寄付で、約1,000ドルが費やされた。バーコウィッツ、カレン、ソナベンドの3人は、ニューヨーク市内で、主にゲイの男性がよく行く店やバーで配布した。

すると、数週間もしないうちに小冊子に記載した郵便ポストに手紙が届くようになった。ネイティブ紙の記事と同じようなゲイ解放運動の裏切り者として非難するヘイトメールではなく、自分たちの作品に感謝し、全米各地に送ってほしいという手紙が届き、毎週増える需要に応えるため、すぐに増刷することになった。

8月18日、ジョナサン・ライバーソンが「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」に「Sex in an Epidemic」の書評を寄せた。その直後、グリニッジビレッジのB.ダルトン書店は、46ページのガイドをウィンドウディスプレイし、「Sex in an Epidemic」は注目を集めた。

噂は広まり、何よりも、ゲイ男性がコンドームを使うようになった。

コンドームメーカーは、ゲイの多いコミュニティでの消費者の需要に応え、市場にアピールするさまざまなサイズ、質感、色の新製品を開発した。その結果、すべての性感染症の感染率が低下し始めた。

「Sex in an Epidemic」
「Sex in an Epidemic」
(引用:"How to Have Sex in an Epidemic (May 1983)" Richard Berkowitz
参考・引用

5月2日

海外での出来事市民運動など民間の動きサンフランシスコとニューヨークでキャンドルヴィジルを開催

カポジ肉腫財団がニューヨークとサンフランシスコで初のAIDS Candlelight Vigilを開催し、AIDSと共に生きる人々との最初のデモを行い、このイベントの写真は世界中を駆け巡り、多くの人が健康への危機感を募らせていることを明らかにしまし、疫病に対する世界的な認識を広めることになった。

ボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・ターナー、マーク・フェルドマンの4人の若者は、自分たちがAIDSのために1年以内に死ぬことが分かっていたため、「Fighting For Our Lives」のメッセージで警戒行動をコーディネートし、「病気に顔をつける」ことを決意した。

4人は、サンフランシスコのゲイ地区カストロから市庁舎までの行進を計画し、ポスターを作成。他の参加者も加わり、キャンドルライトは約1万人が「fighting for our lives」と書かれた横断幕を掲げ、カストロから市庁舎まで何時間もかけて歩いた。

この活動は、他の国の数え切れないほどのHIV/AIDSとともに生きる人々にインスピレーションを与え、地域社会や国のリーダーの関心をHIVに向けさせ、支援を育み、人々を行動に向かわせる運動に育っていった。

キャンドルライト・メモリアルは、2000年に世界保健協議会が主催するようになるまで、People Living With HIV(PLHIV)主導の組織「Mobilization Against AIDS」によって運営されていた。2008年、世界保健機関(GHC)は、国際AIDS・キャンドルライト・メモリアル25周年を開催し、四半世紀にわたる追悼、コミュニティの動員、そして世界的な連帯を記念。

2011年、国際キャンドルライト・メモリアルは、HIVとともに生きる人々のグローバルネットワークを通じて、HIVとともに生きる人々によって主催・調整され、その出発点に戻ってきた。そのビジョンにおいて、キャンドルライトは、私たちが失った人々を記憶し、HIVとともに生きる人々の人生を祝福するための、市民社会主導の最も重要な取り組みの一つであり続けてる。

1984年以来、国によっては、正確な日付が異なる場合もあるが、国際AIDS・キャンドルライト・メモリアルは、5月の第3日曜日に開催している。

AIDSキャンドルライト・ヴィジルのポスター
AIDSキャンドルライト・ヴィジルのポスター
(引用:"AIDS in New York: The First Five Years | New-York Historical Society" Pinterest
ボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・ターナー、マーク・フェルドマン
「Fighting For Our Lives」のメッセージを持つボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・ターナー、マーク・フェルドマンの4人
(引用:"Image / Bobbi Campbell, Bobby Reynolds and others marching with Fighting For Our Lives ..." CALISPHERE
参考・引用
「後天性免疫欠陥症 恐るべき奇病米で大流行」東京新聞

郡司篤晃生物製剤課長は「日本は外国に比べ輸血消費量が多いので、AIDSが日本に上陸しているかどうかは輸血行政からして極めて重要な問題だ」と警戒しているとの記事。

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5月3日

海外での出来事市民運動など民間の動きキャンドル・マーチ、全米に広がる

ニューヨークとサンフランシスコでキャンドルマーチが行われた翌日には、APLA(AIDS Project Los Angeles)主催によりロサンゼルスでも開催され、5,000人が参加した。

その後、ボストン、シカゴ、ダラス、ヒューストンでも何万人もの人々が行進に参加した。

ボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・チューナー、マーク・フェルドマンは、「病気に顔をつける 」という目標に達成した。

Photo: Mick Hicks, 1983
1983年のサンフランシスコでのキャンドル・マーチ
撮影:ミック・ヒック
(引用:"From Awareness to Activism" San Francisco AIDS Foundation
参考・引用

5月11日

海外での出来事国や政府の対応(海外)薬害エイズ関連全米血友病財団、凝固因子の使用の継続を通知

血友病患者のAIDS発症率は2万人中12名という非常に低かったことから、全米血友病財団(HFA)は、血液供給がAIDSの病原体に汚染されているというCDC(疾病管理予防センター)からの警告にもかかわらず、患者に凝固因子の使用を続けるよう促す通知を個人と地方支部に送る。

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5月16日

日本での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連AIDS、血友病患者の死因第2位

エイズ、血友病患者に多発。死亡率70%と高い。本症が血友病患者の死因第2位」医学界新聞

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5月19日

海外での出来事報道・マスコミの対応人物ABCがTV番組「20/20」でAIDS危機を放送

アメリカのジャーナリストであり、弁護士、作家、政治コメンテーターのジェラルド・リベラによるAIDSに関する初の調査報道である17分間の番組には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ヒューストンでのAIDS追悼集会での数百人の活動家の映像や、AIDS患者であるケン・ラムサール、ボブ・チェッキ、ロン・レシオ、ビル・バークへのインタビューを収録。

1979年にニューヨークとサンフランシスコで発生した最初のAIDS患者から始まり、ゲイの人々、静注薬物使用者、ハイチ移民に発生した初期のAIDSの歴史を紹介。

この記事のために、リベラはAIDS危機の最前線にいる数人にインタビューした。その中には、カリフォルニア大学サンフランシスコ医療センターのマーカス・コナント医学博士も含まれ、「アメリカ国民全体」がこの病気について関心を持つべきだと警告している。コナント博士はリベラに対し、AIDSの予防と治療の効果的な方法を開発するために研究資金が迅速に割り当てられなければ、AIDSは米国で大きな健康危機となるだろうと語っている。

リベラは、「AIDSはすでに16の州で診断されている」と伝え、アラビアンナイトの物語に例えて「悪の魔神は壺から出たのだ」と言う。

ニューヨークのGMHC(Gay Men’s Health Crisis)の共同設立者であるラリー・クレイマーにもインタビュー。クレイマーは、AIDS危機を報道しなかったニューヨーク・タイムズ紙を批判し、公務員が報告を義務づけられている伝染病のリストにAIDSを加えなかった米国疾病管理予防センター(CDC)への不満を表明している。

また、ヘンリー・ワックスマン議員が議会の公聴会で、資源と行動が不足しているとしてレーガン政権を批判する映像も含まれていた。

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5月20日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン人物フランスの研究者がAIDSの原因ウイルスを発見

フランス・パスツール研究所の研究者フランソワーズ・バレ・シノッシジャン=クロード・シェルマンがAIDSの原因「かもしれない」ウイルスを特定し、「LAV」(リンパ腺症関連ウイルス)と名付け、医学雑誌サイエンス誌に発表した。

バレ・シノッシは、フランスのウイルス学者リュック・モンタニエの下でこの発見を行い、両者はAIDSウイルスの特定により、2008年のノーベル生理学・医学賞を受賞。バレ・シノッシの発見は、最終的に抗レトロウイルス薬の開発につながり、AIDSを死の宣告から管理可能な慢性疾患へと変貌させた。

しかし、共同研修者だったジャン=クロード・シェルマンは、ノーベル賞の部門受賞の人数規定のため受賞できず、ノーベル賞の大きな忘れ物といわれた。

翌年、米国の研究者ロバート・ギャロは、AIDSの原因であるレトロウイルスHTLV-IIIの「可能性が高い」ものを発見したと発表。フランスのチームがLAVがAIDSの原因であると断言しなかったこともあり、ウイルスの発見をめぐり国際問題にまで発展する。この2つのウイルス(HTLV-IIIとLAV)は、後に同じものであることが判明し、1986年5月に正式に「ヒト免疫不全ウイルス」(HIV)と呼ばれるようになった。

バレ・シノッシは、科学者として、また活動家として、AIDSの蔓延を食い止めることにそのキャリアを捧げた。AIDS被害の最前線に立つことは「心理的に非常に厳しい」と彼女は認めている。

そのため、1996年に抗レトロウイルス療法が発見されると、バレ・シノッシはうつ病になり、公の場での活動から手を引いた。しかし、彼女はすぐに戦いに戻り、しばしば世界中を飛び回り、地域の伝染病の解決策を求める政治指導者や医療従事者と会うようになる。

誰もがそうであるように、私にも人生の中で悲観的になる時があるんです。このままでいいのだろうかと…でも、アフリカや東南アジアに行き、HIVに感染している人たちとちょっとしたミーティングをすると、そんな気分も忘れてしまいます。そして、よし、やろう、続けよう。これは現実の生活だ。自分のことは考えるなってね。

彼女は現在、パスツール研究所のレトロウイルス感染制御ユニットを指揮しており、ワクチンや機能的な治療法を今も探している。

1983年2月4日に撮影されたHIV-1AIDSウイルスの最初の写真の1つ
1983年2月4日に撮影されたHIV-1AIDSウイルスの最初の写真の1つ。AIDSに先行する全身性リンパ節腫脹に苦しむ患者で単離されたウイルスに感染したTリンパ球の断面の部分的なビュー。© パスツール研究所 - 写真 シャルル・ドグエ
(引用:"FRANÇOISE BARRÉ-SINOUSSI AND HER RESEARCH ON THE HIV-1 VIRUS" INSTITUTE PASTEUR
参考・引用
しかし、AIDSの病因におけるこのウイルスの役割の決定が今後の課題である旨コメント。

5月23日

海外での出来事報道・マスコミの対応人物ケン・ラムサウアー

ABC「20/20」のレポーター、ジェラルド・リベラの調査報道で取り上げられた実業家、ケン・ラムサウアーが、AIDS関連の病気でニューヨークで死去。29歳だった。

ラムサウアーはフリーランスの照明デザイナーであり、ホームセンターの店長でもあった。ABCテレビの番組「20/20」でジェラルド・リベラのインタビューを受け、AIDS患者として初めて全国放送のテレビ番組の題材となった。

彼が最後にテレビで語った願いは、「AIDSで亡くなった人たちを追悼するために、セントラルパークに人々が集まってほしい」というものだった。翌月の6月13日、1500人以上がセントラルパークに集まり、ラムサウアーとAIDSで亡くなった人たちを追悼するキャンドルナイトが開催された。このイベントでは、リベラの弔辞、ニューヨーク市長のエド・コッホのスピーチ、その時までにAIDSで死亡したことがわかっている600人の名前の読み上げが行われた。

「ケニー・ラムサウアーは、ニューヨークの人々、そしてこの国の人々にこの病気について知ってもらいたかったのです」初夏の夜、公園のナウンバーグ・バンドシェルに集まった人々に、リベラはそう語りかけた。「彼は、この病気が死を招くような差別と否定的な宣伝を社会に知らしめたかったのです。」

この追悼集会は、伝染病の存在を認めた最初の大規模な集まりとされている。

「How to survive a Plague(ペスト時代の生き残り策)」の著者であるデヴィッド・フランスは、友人と一緒にこの追悼集会に参加し、後にこう書いています

広場は、暗くなった空にキャンドルを灯す1,500人の弔問者でごった返していた。私たちの目が次々と若い男性に注がれると、そのうちの一人が重病であることが明らかになった。車椅子に乗ったまま、まるで飢餓の風刺画のように衰弱している男性も10人以上いた。一人の青年が苦痛で体をくねらせているのを見たが、どうやら周囲の突風が原因だったようだ。

一緒に参加した私の友人は「まるでホラー映画のようだ」と言った。私は言葉を失った。私達は疫病を見つけたのだった。

フランシスは、当時ニューヨークで722人のAIDS患者が報告されたと書いているが、彼の周りの光景から判断すると、その数はかなり多かったと思われる。

ケン・ラムサウアーとAIDSで亡くなった人たちへの追悼集会の記事
ケン・ラムサウアーとAIDSで亡くなった人たちへの追悼集会の記事
(引用:"HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
セントラルパークで行われたラムサウアー追悼集会(写真:リー・シュナイダー)
(引用:"The unlikely coalition that put the brakes on Aids" FINANTIAL TIMES
参考・引用

5月24日

米国保健福祉省は、血液製剤の加熱処理について、B型肝炎に対すると同様、AIDSからも血友病患者が守られればよいとコメント。 保健福祉省(HHS:Department of Health and Human Services) ”We hope the process(new heat treatment)can provide hemophiliacs with some protection against AIDS as well as against such known viruses as those for hepatitis.” 私たちは、このプロセス(新しい熱処理)が血友病患者に対して、エイズや肝炎などの既知のウイルスに対する防御を提供できることを願っています。
参考・引用

5月25日

海外での出来事報道・マスコミの対応ニューヨーク・タイムズ紙、1面で報道

ニューヨーク・タイムズ紙が、AIDSに関する初の一面記事 「Health Chief Calls AIDS Battle 'No.1 Priority'(AIDS対策は「最優先課題」と語る保健省長官)」を掲載。記事は、拡大するAIDSの流行に対する連邦政府の対応について報道。

ランディ・シルト「And the Band Played On」(1987年)の中で、「タイムズ紙は、全国的に非報道のトーンを設定していた」と書いています。「メディアの関心が低い理由はただ一つ、米国疾病管理予防センター(CDC)のタスクフォースの全員がそれを知っていた。被害者は同性愛者だからだったのだ

1983年5月25日、AIDSに関する記事が一面を飾ったのは、1,450件(うち558件が死亡)の症例が報告されてからであり、政府の保健担当トップがAIDSの調査を公衆衛生局の「最優先事項」にすると発言してからだった。しかし、そのころには、The Timesの堰は切れていたようだった。その月だけでAIDSに関する記事が20本もあった。

新聞はAIDSの動向を追っていたが、ローカル記事や全国的なニュース報道でAIDSに言及することはほとんどなかった」とシルトは書いている。「特にニューヨークの同性愛者の記者は、ニュース業界で生き残るためには、自分の立場をわきまえ、口を閉ざす傾向があった。

その中には私も含まれていたようです。私は、AIDSが流行り始めた当初、地域社会よりも自分のキャリアを守るために、AIDSをいかに無視するかについて、自分なりの考えを持ち続けました。私が初めて大きな記事を書いたのは、ホームレスのAIDS患者のための新しい住居に関するもので、1987年1月まで掲載されることはなかった。

一人の記者がタイムズという巨大戦艦の進路を変えることはできませんが、情熱的で知識があり、粘り強い記者が進路を1度や2度変えるのを私は見てきました。私のキャリアで最大の後悔は、AIDS報道を改善するために、わずかな差でもいいから、もっと努力しなかったことだ。

この記事が新聞に掲載されるまでに、1,450人のAIDS患者が報告され、そのうち558人が亡くなっていた。

1983年5月25日のニューヨーク・タイムズの記事
1983年5月25日のニューヨーク・タイムズの記事
(引用:"1983 | Having Claimed 558 Lives, AIDS Finally Made It to the Front Page" THE NEW YORK TIMES
参考・引用
日本での出来事報道・マスコミの対応「米の奇病、世界的流行」毎日新聞最新記事

米国で猛威を振るっている原因不明の奇病、後天性免疫不全症候群(AIDS)が世界的な流行の兆しを見せてきたと伝えられた。

参考・引用

5月26日

日本での出来事報道・マスコミの対応薬害エイズ関連「米で流行『恐怖の奇病』 厚生省が厳戒態勢」読売新聞

アメリカでは最近、発病前の人からの輸血により、血友病患者の中からAIDSの患者が11人も発病(うち8人死亡)、また同性愛者を親に持つ子ども、さらに同性愛や麻薬とまったく関係のないハイチからの移民が発病するなど、輸血や通常の男女間の性交渉によってもAIDSが広がっていく様相をみせてきた。

郡司篤晃・厚生省薬務局生物製剤課長の話「血液製剤は9割以上、アメリカからの輸入に頼っており、AIDSについては、きわめて重大な関心を持っている。発病者が出た場合、早く発見し、対策を打てるよう、早急に研究班を発足させたい」

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5月27日

海外での出来事市民運動など民間の動き人物LAで5,000人デモで連邦政府に行動を要求

米国の5大都市のゲイとレズビアンが街頭に立ち、急増するAIDSに対応するよう、連邦政府にエイズ研究の強化を要求した。

ロサンゼルスでは、予想を上回る5,000人のデモ隊がウィルシャー連邦ビルに集結した。

イベントの主催者であり司会者でもあるAIDSプロジェクト・ロサンゼルスのマット・レッドマンは、「レーガン政権に鉄槌を下そう」と観客に呼びかけた。レッドマンは、エドワード・ブラント保健福祉省次官補がエイズの資金は十分であると主張したことを非難し、「そんなのでたらめだ!」と宣言した。

西の空が暗くなるにつれ、デモ隊は何千本ものキャンドルに火を灯し、亡くなった友人や恋人を偲び、死にゆく者がやがて終わることを期待に反して祈る、厳かな祈りの場となった。

主催・司会の南カリフォルニアのデザイナーであったマット・レッドマンは、エイズ・プロジェクト・ロサンゼルスの創設者の一人であり、電話によるホットライン1本から、全米で最大かつ最も効果的なエイズ・プログラムの1つに成長した社会奉仕団体である。マットは2016年12月27日、エイズの合併症で死去。67歳であった。

この地域の最も重要な支援者である議会議員のヘンリー・ワックスマンエド・ロイバルはワシントンに戻り、レーガン政権に疫病との対決を迫っていた。右派の抵抗にもかかわらず、彼らはその年の研究費1,200万ドルを確保することに大きく貢献した。両議員の側近は連帯の声明を読み上げ、政治的圧力をかけ続けるようデモ参加者に呼びかけた。

議会ヒスパニック・コーカスの創設者であるエドワード・ロイバル議員は、下院歳出委員会の委員を務めていた。ロイバル議員は、ニューメキシコ州で生まれ、エイズとの闘いにおける知られざる英雄の一人である。多くの政府関係者がこの病気をゲイに対する神の裁きと見なしたのに対し、彼は拡大する疫病の公衆衛生上の脅威を理解し、認知度の向上と研究資金の調達に精力的に取り組んだ。20世紀にカリフォルニア州から選出された最初のラテン系議員として、彼は汚名を着せられることの痛みを理解していた。その昔、共産主義者にロス市警への登録を義務付ける法案に反対したとき、ロイバル議員は幼い娘たちとともに市役所の前で暴徒に唾を吐きかけられたこともある。

ワックスマン議員もまた、不人気者の権利を守る必要性を理解していた。同僚から「なぜエイズ対策に力を入れたのか」と問われ、「私はユダヤ人です。あなたの社会が、あなたの生死を気にしないことがどういうことか理解しています」と答えたという。

参考・引用

6月10日

日本での出来事報道・マスコミの対応薬害エイズ関連厚生省の研究班発足について各社報道最新記事

奇病AIDS厳戒 研究班設置厚生省急ぐ」朝日新聞

国内で患者が見つかっていないのに研究班を発足させた理由を、厚生省の郡司篤晃生物製剤課長インタビュー。

米国から原料を輸入する血液製剤の使用で感染者が出る心配もあり、厳戒態勢に入る。

米から原因不明の奇病?厚生省が研究班」毎日新聞

『現代のペスト』に厳戒体制、死亡率70~80%、日本上陸阻止へ研究班」サンケイ新聞

参考・引用

6月12日

海外での出来事市民運動など民間の動きデンバー原則、採択

デンバー原則は、全米AIDSフォーラムのステージを包囲したAIDSに苦しむ11人のゲイ男性が注目を集め、注意を喚起したことから採択された。

デンバーで開催された全米AIDS・フォーラムでは、全米から約400人のゲイとレズビアンの医療従事者が集まり、米国のさまざまな集団に流行している新しい病気に関する情報を共有した。また、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、カンザスシティ、デンバーのAIDS活動家も初めて一堂に会し、行動を起こすための起爆剤となった。

そこでは、それぞれの活動家のAIDS危機に対するアプローチに大きな違いがあることが明らかになった。特に、マイケル・カレンが率いるニューヨークとボビー・キャンベルが率いるサンフランシスコの代表団の議論は注目された。

西海岸の幹部は疫病を極めて政治的に捉え、「AIDS患者」「AIDS被害者」という表現を否定した。

これに対し、ニューヨークの参加者は、ゲイの人々に広く見られる自己免疫疾患は、乱交や性感染症が原因であるという説に重点を置いていた。彼らは、このメッセージをコミュニティに伝えることを重視し、コミュニティ外の人々が自分たちをどう見るかはあまり気にしていなかった。

それぞれの主張は違っていたが、病人が自分自身を主張する時が来たという点で、意見が一致した。

キャンベルをリーダーとする活動家たちは、AIDSとともに生きる人々の権利に関する声明を作成。その中には、政策決定に参加できること、尊厳をもって迎えられること、「AIDS被害者(AIDS Victims)」ではなく「AIDSとともに生きる人(People With AIDS)」と呼ばれること、といった要求が含まれていた。

彼らは会議の閉会式に出席し、11人が「fighting for Our Lives」と書かれた横断幕を広げてステージを取り囲んだ。

11の提言を11人のゲイ男がそれぞれ1人1提言ずつ宣言し、勧告と責任のリストが初めて公に語られた。

最後の提言はカレンのものだった。AIDSに感染していない地域の代表として集まった多くの代議員にとって、運命に翻弄される若者たちの姿を目の当たりにして、打ちのめされるような思いだったという。

この声明は「デンバー原則」として知られるようになり、「全米AIDS患者協会」設立の憲章にもなった。

デンバー原則

私たちは、私たちに「犠牲者」という敗北を意味するレッテルを貼ろうとする試みを非難し、私たちは時折「患者」という受動性、無力感、他人の世話への依存を意味する言葉を使うに過ぎない。私たちは「People With AIDS(AIDSとともに生きる人)」なのです。

すべての人への提言
  1. 私たちを仕事から解雇し、家から追い出し、私たちに触れることを拒否し、私たちの愛する人、コミュニティ、仲間から引き離そうとする人たちに対する私たちの闘いを支援してください。なぜなら、AIDSがカジュアルな社会的接触によって感染するという見解は、利用可能な証拠によって支持されていないためです。
  2. AIDS患者をスケープゴートにしたり、流行の原因を私たちに求めたり、私たちのライフスタイルを一般化したりしないこと。
AIDS患者への提言
  1. 自分たちの代表を選び、メディアに対応し、自分たちの議題を選び、自分たちの戦略を練るために、議員連盟を結成する。
  2. あらゆるレベルの意思決定に関与し、特にプロバイダー組織の役員を務める。
  3. すべてのAIDSフォーラムに、他の参加者と同等の信頼性をもって参加し、自らの経験や知識を共有する。
  4. AIDS患者には、潜在的な性的パートナーに自分の健康状態を知らせる倫理的責任があると考えるからです。
AIDS患者の権利
  1. 他の誰よりも充実した、満足のいく性生活と感情生活を送ること。
  2. 性的指向、性別、診断、経済的地位、人種など、いかなる差別もなく、質の高い医療と質の高い社会サービスの提供を受けること。
  3. すべての医療行為とそのリスクについて十分な説明を受け、治療方法を選択したり拒否したり、治療を妨げることなく研究への参加を拒否したり、自分の人生について十分な情報を得た上で決定することができるようにする。
  4. プライバシー、医療記録の機密保持、人間尊重、重要な他者を選ぶことができる。
  5. 尊厳をもって死ぬこと、そして生きること。
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6月13日

日本での出来事国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連厚生省、エイズの実態把握に関する研究班発足

厚生省は、安倍英(帝京大学副学長)を班長とする「エイズの実態把握に関する研究班」を発足。

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6月14日

海外での出来事市民運動など民間の動きセクシュアルマイノリティ関連人物PWA(People With AIDS:AIDSとともに生きる人々)を対象とした初のAIDS法律相談所発足

AIDS法律相談所(ALRP:AIDS Legal Referral Panel)は、1983年に弁護士のフレデリック・ハーツ、スティーヴン・リヒター、マーク・セニック、ゲイリー・ジェームズ・ウッドの4人によって設立された。当初はLGBT団体Bay Area Lawyers for Individual Freedom(BALIF:個人の自由を守るベイエリア法律事務所)の委員会だったが、設立者はこの団体が独立した非営利団体としての可能性があると認めていた。

ベイエリアのゲイ男性がAIDSの合併症で死に直面していることを懸念した4人は、遺言書の作成と永久委任状の設定を含む法的リソースを作ろうとした。このような法的文書を作成することで、個人が尊厳を持って死を迎えることができ、医療や資産の処分に関する希望を実現した。

4人はまず、AIDS患者が電話で法的支援を受けられる電話番号を公表し、他の弁護士を募集することから始めた。やがて、法曹界はAIDS法律相談所を通じて、AIDSの危機に対応するためのスキルとリソースを活用し、AIDSで死にゆく人々が安心して死を迎えられる権利を享受できるようになった。

ハーツはこう語る。「緊急遺言の作成は、心が痛むものでした。でも、どうやって正気を保っているのかと聞かれたら、それは自分の法的スキルを、本当に人々の役に立つ形で使うことでした。私は生産的で意義のあることをし、人々の生活を改善することに悲しみを集中させていたのです。」

4人の創設者と10人のオリジナル・メンバーが、数年間、他からの援助なしでこの組織を維持した。最初はBALIF(個人の自由を守るベイエリア法律事務所)の共同議長であるスティーブ・リヒターが電話番号のリストを持って主導し、1983年にリヒターがAIDSを発症するとゲイリー・ジェームズ・ウッドが主導、1986年までボランティアスタッフのみの組織として運営した。1986年に、弁護士のクリント・ホッケンベリーが新たに加わった。

ホッケンベリーの指揮のもと、AIDS法律相談所は関係する弁護士たちの草の根コミュニティから、確立された弁護士紹介サービスへと成長。資金調達の努力は秀逸で、弁護士の大規模な採用、訓練、監督を開始。また、サンフランシスコ弁護士会のボランティア・リーガル・サービス・プログラムと提携し、組織の正統性と知名度を向上させた。

ホッケンベリーは、有色人種、子供、女性、薬物注射使用者、英語を母国語としない人、ホームレスの人々により良いサービスを提供するために、アウトリーチを拡大。ホッケンベリーの在任中、AIDS法律相談所は初の全国AIDS法律会議を主催し、初のAIDS法手引書を出版し、他の郡にもアウトリーチを拡大し、ライアンホワイトCARE法の資金を獲得し、AIDS法律相談所の公共政策プロジェクトを創設。AIDS法律相談所は1990年にBay Area Lawyers for Individual Freedom(BALIF:個人の自由を守るベイエリア法律事務所)から独立した組織となり、正式な理事会を持つようになった。

1992年3月、クリント・ホッケンベリーはAIDSで亡くなったが、彼のリーダーシップの下、AIDS法律相談所は危機への反応から生まれた組織から、HIV/AIDSコミュニティの刻々と変わるニーズに創造的かつ積極的に対応し、先取りする組織へと成長。HIV/AIDS患者が長生きするようになると、2代目事務局長クリスティン・チェンバースとその後継者アーウィン・ケラーは、ホッケンベリーのダイナミックなクライアントサービスのモデルを継続。

チェンバーとケラーの在任中、1990年代にはサービスや公共政策の取り組みが拡大し、HIV/AIDSコミュニティの法的ニーズに応えるため、顧客紹介システムを改善。不動産価格の高騰でHIV/AIDSコミュニティの多くがホームレス状態に陥ったため、住宅専門の弁護士をフルタイムで雇用した。

さらに、AIDS Benefits Counselors(AIDS福利厚生カウンセラー会:現Positive Resource Center)とEmployment Law Center(就職支援センター)と共同で出版した教育マニュアル「Working in the Cycle of HIV(HIVのサイクルで働く)」は、AIDS患者が新しい治療法の効果を実感し、職場への復帰を希望していることに対応するために作成。公共政策の面では、国の医療改革、HIVのプライバシーと守秘義務の継続と改善、および給付金への拡大、公正かつ適切なアクセスを証明するための社会改革を提唱。

ビル・ハーシュが4代目エグゼクティブ・ディレクターに就任した2000年までに、AIDS法律相談所はサンフランシスコ総合病院の患者だけの対象から、ベイエリア7郡のクライアントを対象とするまでに成長。緊急の遺言状や委任状の作成から、民法のあらゆる分野でクライアントに法的支援を提供。単なる弁護士紹介サービスではなく、直接的な法的表現と個人的な弁護士/クライアントの紹介の両方を提供する組織となった。

AIDS法律相談所は、米国で初めて組織されたHIV/AIDS患者のための法律支援活動であり、1983年に結成された当初のメンバーの多くは、今日まで組織で活動。当初は末期患者のために緊急の遺言書やその他の必要書類を作成するために結成されたが、HIV/AIDS患者の寿命が伸びたことによって、より複雑な法的ニーズに直面している問題に焦点を移している。

1983年に弁護士の友人たちの小さな輪から始まったAIDS法律相談所は、15人の常勤スタッフと700人以上のボランティア弁護士の団体に成長、毎年100万ドル以上の法律サービスを提供、設立以来HIV/AIDSと共に生きる人々のために76,000件以上の法的問題を扱ってきた。

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6月17日

海外での出来事報道・マスコミの対応ニューヨーク・タイムズ紙がAIDSで捨てられた幼児を報道

AIDSウイルスに感染して生まれた乳幼児が、ニューヨークの病院に置き去りにされるという驚くべきケースについて、タイムズ紙が報道

また、疾病管理予防センター(CDC)が発表している全米の小児AIDS患者数と、ニューヨーク都市圏だけで医師が治療している乳幼児数(63人以上)との食い違いを明らかにした。

この記事の中で、ニューヨークの小児免疫学者アーリエ・ルービンシュタイン医学博士は、CDCの症例数が少ないのは、連邦政府のAIDSの定義が「不当に厳格」であるため、CDCは悪性腫瘍や日和見感染症にかかった子供たちだけをカウントしているからだと非難。

ルービンシュタイン医師は、CDCの定義には当てはまらないが、間違いなくAIDSウイルスに感染していると思われる患者を何人か治療しているとタイムズ紙に語った。記事では、ルービンシュタイン博士の小児AIDSの症例数は44人であるとされている。また、セント・マイケルズ病院とニューアーク大学医学部のジェームス・オレスケ医学博士は、18人の小児患者と6人の疑い例を持っていることを紹介。

その後、ルービンシュタイン博士は、CDCの症例数が過小評価されていること、CDCが小児エイズの定義を拡大する必要性を強く訴えるようになった。

タイムズ紙の記事は、ニューヨークの病院に捨てられたAIDSの幼い子供たちの苦境も伝えている。医師たちによると、この子供たちは、AIDSで死亡した、あるいは瀕死の母親によって病院に置き去りにされてきたという。

市には親のいないAIDSとなった乳幼児を収容する場所がなかったため、彼らはその症状を治療している病院に預けられた。タイムズ紙は、市の福祉機関「スペシャル・サービス・フォー・チルドレン」が里親を募集していたが、誰も引き取り手がなかったと報じている。

この記事は、後に「エイズ・ベビー」と呼ばれるようになる、AIDSウイルスに感染して生まれ、孤児となった子どもたちの悲痛な現状にいち早く着目したものだった。1980年代には、その子どもたちのほとんどが2年以内に亡くなっていた。

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6月18日

日本での出来事国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連報道・マスコミの対応人物「厚生省AIDS研究班の班長になった 安部英さん」読売新聞最新記事

安部談「輸入に頼っている血液製剤で感染する危険もある」

日本での水際防止対策についての質問に対しては、「輸入血液を六十度で十時間加熱し、ウイルスを不活性化する方法をとりたい。原因が分からないので、とにかく厳戒体制だけはとっておきます」

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6月19日

海外での出来事セクシュアルマイノリティ関連報道・マスコミの対応人物ロサンゼルスの公共ラジオ「I Will Survive」、AIDSを特集

ゲイの視聴者向けに制作された「I Will Survive(私は生き残る)」は、ロサンゼルスの公共ラジオ局KPFK 90.7 FMで、ゲイプライド月間を祝う番組の一部として放送。

1時間のラジオ番組で、プロデューサーのデビッド・ハントは、「AIDS流行の初期にゲイ・コミュニティが直面した、恐怖、貪欲、絶望、否定という相反する流れ」を検証。

ハントは自身のウェブサイト「Tell Me David」に次のように書いている。

当時としては、このドキュメンタリーは、AIDSという新興の疫病をかなりクリアな目で見ている!

AIDSの原因はウイルスであるという医学的なコンセンサスを正しく強調し、AIDSと闘うための手段として、教育、個人の責任、集団行動を促している

また、ハントは、1980年代前半に地域の多くの人々の命を救ったのは初期の活動家たちである語っている。

ラリー・クレーマー、ランディー・シュルツ、ハリー・ブリット、ボビー・キャンベル、マット・レッドマンなどの先駆者がいなければ、苦しみはもっとひどく、犠牲者はもっと大きかったでしょう。

1981年、1982年のAIDS流行の初期の頃、私たちの誰が生き残れるのだろうかと思ったことを覚えています。ドキュメンタリーのタイトル「I Will Survive(私は生き残る)」は、虚勢を張ると同時に、そのメッセージが書かれたボタンをつけていたボビー・キャンベルへの敬意を表したものです。

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海外での出来事市民運動など民間の動き報道・マスコミの対応人物テレビ伝道師ジェリー・ファルウェル、AIDSは同性愛への罰であると主張

政治組織「モラル・マジョリティ」の創設者である保守派のテレビ伝道師ジェリー・ファルウェルは、「AIDSは同性愛者に対する神の罰であるだけでなく、同性愛者を容認する社会に対する神の罰である」と信者に説いていた。

宗教保守派に人気のある悪名高い同性愛嫌悪者であり隔離主義者であるファルウェルは、1970年代にアニタ・ブライアントの「Save Our Children」キャンペーンで始めたLGBTQコミュニティを攻撃するキャンペーンを続けていた。

翌月、ファルウェルの組織「モラル・マジョリティ」は、「同性愛の病気がアメリカの家族を脅かす」と題したAIDSに関する報告書を発表。そこでは、全員が外科手術用のマスクをした、2人の子どもを持つ白人カップルを特集し、あたかも日常生活でも感染するように描いていた。また、同性愛が「家族」にとって有害な存在であることを説いていた。

「モラル・マジョリティ」は、キリスト教右派と共和党に関連するアメリカの政治組織でした。1979年にバプテスト牧師のジェリー・ファルウェル・シニアと仲間によって設立。政治勢力としての保守的なキリスト教徒の動員、特に1980年代の共和党大統領の勝利において重要な役割を果たしていた。

共和党のレーガン大統領とファルウェルの親密な関係が、レーガン政権がAIDS対策に冷淡だったことに直接貢献したと考える人も多い。

ジェリー・ファルウェル氏
保守派のテレビ伝道師ジェリー・ファルウェル氏
(引用:WikipediA
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6月23日

海外での出来事市民運動など民間の動き人物サンフランシスコで開催されたカポジ肉腫ベネフィットにハリウッド・スターが参加

An evening with Debbie Reynolds and Friends(デビー・レイノルズと仲間たち)」は、「Acts of Intervention(介入する行為)」の著者であるデヴィッド・ローマンによると、初期のサンフランシスコでの募金活動の中で最大かつ最も成功したイベントだったという。このイベントは、新しく設立されたカポジ肉腫研究教育財団(Kaposi Sarcoma Research and Education Foundation)のために43,000ドルもの資金を集めることができた。

エイズ危機の初期を描いた著書「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」の中で、ランディ・シュルツはこう書いている:

全米カポジ肉腫AIDS財団のための募金活動は、真のサンフランシスコのイベントのような華やかさを持っていた。司会のデビー・レイノルズが、サプライズ・ゲストのシャーリー・マクレーンを「マクレーンは脚がきれいだ」と紹介すると、マクレーンはそれに応えて、ストラップレスのロングドレスの裾を持ち上げて美脚を披露。観客は「I Love You、シャーリー!」と熱狂的な歓声を上げた。レイノルズも負けじと、スリットの入ったドレスを持ち上げて、短い黒の下着を披露した。

デビー・レイノルズとシャーリー・マクレーン
デビー・レイノルズ(右)とシャーリー・マクレーン(左)
(引用:"Debbie Reynolds, early Hollywood AIDS activist" the pride
カポジ肉腫研究教育財団のベネフィットのリハーサルでのデビー・レイノルズ(UPI Photo/Bill Kwok/Files)
(引用:"Debbie Reynolds, early Hollywood AIDS activist" the pride

デビー・レイノルズは、「雨に唄えば」「不沈のモリー・ブラウン」「歌え!ドミニク」などで知られる黄金時代のハリウッドを代表するミュージカル・スター。「レイノルズは、自分の名前と才能をエイズの蔓延との戦いに貸すために、特典なしでいつでも利用できることで知られていた」とジャーナリストのカレン・オカンブは書いている。レイノルズは8月にも、ハリウッドボウルでロサンゼルスで最初のエイズ・ベネフィットにも出演している。

また、ゲストのシャーリー・マクレーンも、「80日間世界一周」「スイート・チャリティ」「カン・カン」「アパートの鍵貸します」「愛と喝采の日々」などの名作でも知られる歌って踊り、アカデミー主演女優賞なども獲得した演技派でもあるトップ・スター。彼女もAIDSを始めとするベネフィットに熱心で、1959年には日本を襲った伊勢湾台風の際、義援金を基に日本の福祉団体を通して東海地区の小学校にピアノを寄付したこともある。

1984年、カポジ肉腫研究教育財団(Kaposi Sarcoma Research and Education Foundation)は、サンフランシスコAIDS財団(San Francisco AIDS Foundation)と改名した。

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海外での出来事研究・医療関連のアイコン人物国立衛生研究所(NIH)の研究者がエイズに関するデータと理論を共有

メリーランド州ベセスダのクリニカルセンターに国立衛生研究所の研究者たちが集まり、国立アレルギー・感染症研究所の所長であったアンソニー・ファウチ医学博士を中心にAIDSに関する最新情報を、まとめて発表した。

この論文は、ファウチ博士とエイブ・マッチャー医学博士、ダン・ロンゴ医学博士、H・クリフォード・レーン医学博士、アラン・ロック医学博士、ヘンリー・マイスター医学博士、エドワード・P・ゲルマン医学博士の共著で発表された。

AIDSの原因は不明だが、「伝染性物質、おそらくウイルス」によるものである可能性が高い。

エイズは「性的接触、特に同性愛の行為によって」広まる。

血液を介した感染は、「他の主要な感染経路」として認められている。

この病期は、日常生活、性的接触以外、血液を介さない経路では、簡単に広がる性質のものではない可能性が「非常に高い」。

この論文は、この病気が感染者全員を死に至らしめる可能性を考慮し、「歴史上最も異常な伝染病の一つ」と呼んでいる。

アンソニー・ファウチ博士
(引用:"A NEW DISEASE, ACTION ON AIDS" Against the Odds
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海外での出来事セクシュアルマイノリティ関連報道・マスコミの対応人物レーガン大統領のスタッフが論説でゲイを誹謗中傷

ロナルド・レーガン大統領のスピーチライターであったパトリック・J・ブキャナンはニューヨーク・ポスト紙に寄稿し、「性革命は、子供たちを食い尽くし始めた。哀れな同性愛者たち、彼らは自然に宣戦布告し、今、自然はひどい報復を引き出している」と、政治組織「モラル・マジョリティ」の立場に共鳴した論説を掲載。

ブキャナンは、同性愛者は食品を扱う仕事から追放されるべきであり、「サンフランシスコを訪れる観光客は、危険な伝染病、時には致命的な病気の共通キャリアであるコミュニティーに属する同性愛者たちに翻弄されることになる。」と書き、「民主党が1983年の大会をサンフランシスコで開催することを決定したことは、代表団とその家族を危険にさらすことになる」と締めくくった。

多くの過激派がそうであるように、ブキャナンも自分の主張に特別な一貫性を持たせようとはしなかった。彼は、ケビン・ケーヒルが主張した、医師の間でAIDSに関する「沈黙の陰謀」を引き合いに出し、リベラル派はAIDSに感染したキャリアの同性愛者がアメリカ人にもたらす恐ろしい脅威を隠蔽しているという主張を支持した。

彼は、サンフランシスコの警察官がマスクと手袋をしている姿を使い、AIDSの危険性を訴えた。また彼は、多くの無関係な医学的統計を引用した後、同性愛者は食べ物を扱うことを許されるべきではなく、民主党が次の大会をサンフランシスコで開催すると決めたことは愚かな決定であると断言していた。

同性愛者に対する世間の態度は、近年では確かに改善されたが、ブキャナンのような考え方は、今も宗教右派の中でも、特に影響力がある人物に引き継がれている。今日の保守派は、同性愛をタバコの副流煙に例えたり、同性愛者の教師を子どもの近くに置くべきではないと主張している。彼らの哲学や信念は、最終的にはブキャナンの同性愛嫌悪に根ざし、基礎づけられているという。

ブキャナンは、現在も尊敬を集める保守派のコメンテーターとして活動を続け、ケーブルテレビ局MSNBCの番組Morning Joeで政治コメンテーターを務め、 The McLaughlin Groupにレギュラー出演している。

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6月24日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連疾病管理予防センター(CDC)は羅漢率と死亡率週報(MMWR)で、感染因子を含む血液又は血液製剤の経皮的接種による感染と母子感染を示唆

CDCは6月20日までに米国内とプエルトリコから1,641人のAIDS患者の報告があり、そのうちの39%にあたる644人が死亡していると確認。AIDS患者の90%以上が20〜49歳で、48%近くが30〜39歳であり、米国ではすべての主要な人種で患者が発生、女性では109例(7%)しか報告されていないと発表。

また、報告された1,641例のエイズ患者に加えて、日和見感染症や原因不明の細胞性免疫不全の乳児21例がCDCに報告された。乳児の症例は、以前に報告された先天性免疫不全症候群と区別がつきにくいため、別に記録されている。

感染リスクが最も高いのは、同性愛者および両性愛者の男性(71%)、静脈内麻薬使用者(17%)、ハイチ生まれで米国在住の人(5%)、血友病患者(1%)と変わらず、ほとんどの症例は大都市圏の住民と報告。

エイズの原因は不明であるが、親密な性的接触、汚染された注射針、あるいはあまり一般的ではないが、感染性のある血液や血液製剤の経皮的接種によって感染する病原体が原因である可能性が高いとしている。

空気感染によるAIDSの感染を示唆する証拠はなく、エイズ患者の友人、親戚、同僚の間で患者が確認されなかったことは、日常生活での接触にはほとんどリスクがないことを示すさらなる証拠であるとしている。

また、原因不明の免疫不全の乳児21人のほとんどは、エイズのハイリスクグループに属する母親から生まれているため、この症候群が本当にAIDSだと仮定すると、出産前、出産中、または出産後まもなく、感染した母親からの乳児への感染が示唆されると報告。

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6月27日

日本での出来事海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連第15回世界血友病連盟国際会議で治療方法に変更なしの方針

ストックホルムで開催された第15回世界血友病連盟(WFH)の国際会議で、2つの問題で合意に達した。

血友病の現在の治療は、個々の医師の判断にしたがって、利用可能な血液製剤を使用して継続されるべきである

すでに述べた疑問について、縦断的な研究が緊急に必要であり、また、様々な治療法の相対的なリスク/ベネフィット比をより明確にすることが必要である

塩川優一順天堂大学名誉教授(当時)は、「世界血友病連盟の大会(ストックホルム)での決議『治療法の変更は必要ない』を受け、安部は国内患者の動揺を避けるために危険性を強調することに消極的になった。世界でもHIV抗体を検出する技術が確定されておらず、やむえなかった。」と語る。

しかし、広河隆一氏は著書「薬害エイズの真相」(徳間文庫、1996年)で、「この決議は非加熱製剤の供給減を恐れる製薬会社の意向が反映されている。同連盟の理事である安部が決議の履行をスムーズにするために、国内での非加熱製剤の安全性を強調した。」と語っている。

会議に参加したピーター・フォスター博士(英国エジンバラのタンパク質分画センター)は、米国代表団は状況を軽視し、エイズヒステリーを抑制しようとする試みがあったという印象を語っている。

北米の研究では免疫力の低下は障害暴露や年齢と関連があるような報告だったが、ヨーロッパの参加者の多くは、免疫力の低下は輸入濃縮液の使用と関連しており、地元の濃縮液との関連性はなかったという報告だった。このことは、ヨーロッパの研究者たちは米国製の濃縮液に問題があると考えているということだった。

フォスター博士は、帰国後に覚書を作成していた。

疫学的証拠から、AIDSは感染性の病原体によって引き起こされることが強く示唆された。

感染後1年以内の潜伏期間があり、その後、エイズに特異的でない様々な初期症状が現れる期間(1〜2年)がある。

感染者は、感染した時点から病気を伝播させることができる。

第VIII因子による感染に強い証拠があった。

代理ドナーのスクリーニング検査(循環免疫複合体と抗HBc)によって、AIDS患者の非常に高い割合(98.4%)が特定されるが、血漿プールは10%制限される。

アメリカからのメッセージは、リスクはほとんどないということだった。

100万人に1人のリスクという数字が何度も出てきたが、単純計算では1000人に1人である、とフォスター博士はコメントした。アメリカからのメッセージは、濃縮液を飲み続けろというものだった。

フォスター博士は、最初の血友病患者はわずか12ヶ月前であり、潜伏期間は1〜3年と考えられることから、多くの代表者(主にヨーロッパ)は明らかに不安を感じ、我々はまだ氷山の一角を見たに過ぎないのではないかと感じていると結論づけた。

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7月1日

海外での出来事国や政府の対応(海外)全米エイズ・ホットライン開設

公衆衛生局(PHS)米国疾病対策センター(CDC)のサービスとして、一般からの問い合わせに対応するために、「全米エイズ・ホットライン(NAH:National AIDS Hotline)」を開設。

7月28日までに、毎日8千人〜1万人の相談があり、電話回線を3回線から8回線に増やす必要に迫られた。

全米エイズ・ホットラインのサービスには、HIV/AIDSに関する一般からの質問や、州や地域のリソースの紹介などの対応を行い、すべてのサービスは無料で提供されている。

サービスは、フリーダイヤルの電話システムを通じて、1日24時間、週7日、全米エイズ・ホットラインにつながり、英語を話す人、スペイン語を話す人、聴覚障害者に提供。

約170名のインフォメーション・スペシャリストを雇用し、最新のテレコミュニケーション技術を駆使して、43のワークステーションに電話を効果的に管理し、誘導している。米国疾病対策センター(CDC)のNational AIDS Clearinghouseのデータベースにアクセスし、紹介や出版物の注文も可能。

1983年の設立以来、全米エイズ・ホットラインは世界最大の健康関連ホットラインサービスに成長。1987年10月以降、年間平均約140万件以上の相談に対応している。

疾病管理予防センター(CDC)のサービスである全米エイズホットラインを担当するCDC職員
疾病管理予防センター(CDC)のサービスである全米エイズホットラインを担当するCDC職員
(引用:"NATIONAL AIDS HOTLINE" Grobal Health Chronicles
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海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連スタンフォード血液銀行が献血のスクリーニング検査を開始最新記事

スタンフォード血液センターは、AIDSの輸血感染リスクを低減することを特に意図した初の血液検査プログラムを実施。1983年7月から1985年6月にかけて、合計33,831件の献血がスタンフォードでスクリーニング検査され、そのうち586件はCD4数が少なく、感染の可能性があるとして廃棄された。

スタンフォードは、この586件の献血の血清サンプルを保管し、数年後、検査が可能になったときに、HIVに特化したスクリーニング検査を実施。スタンフォード血液センターのエド・イングルマン博士は、このうち1.9%がHIV陽性であることを発見。これは、約33人のHIV感染を回避できたことになるという。

献血された血液をHIV/AIDSの指標でスクリーニング検査する米国初の血液銀行として、新しい方針はCD4-T細胞が少ない人からの献血を排除した。AIDSではCD4-T細胞が失われることで、患者はさまざまな感染症疾患にかかりやすくなる。したがって、このスクリーニング検査は、必ずしもHIV/AIDSの存在を特定するのではなく、HIV/AIDS感染の可能性を示す指標を特定する代替検査とされた。

この新しいスクリーニング検査ステムは、サンフランシスコの医療界でAIDSに対する認識が高まり、既存の血液保護対策に懐疑的な見方が強まったことから生まれた。1983年春、スタンフォード病院は2人のAIDS患者を治療した。どちらもベイエリアの施設で輸血を受けたことがあり、ハイリスク・グループであることは確認されていなかった。

イングルマン医学博士は回想している。

この時点で、スタンフォード血液センターの私と同僚は、地域の血液供給におけるAIDSの病因と推定される物質の存在を無視できないと感じました。この感染症は致死率が高いので、血液供給を守る唯一の手段として、自己申告に頼ってはいけないと思ったのです。

イングルマン博士の言う自己申告とは、公衆衛生局(PHS)が当時推奨していた、ドナーが自発的にハイリスク・グループの一員であることを申告することに頼ることを指す。全米の血液センターでは、この公衆衛生局(PHS)の勧告に基づき、ドナー希望者にAIDSリスク・グループに関する情報シートを提供し、リスクの定義に該当する場合はドナー自身を除外するよう求めるのが一般的だった。

この方法がうまくいかないことは予想できた。

第一に、この方法はドナーの自己責任に完全に依存していた。

第二に、公衆衛生局(PHS)の同性愛者のエイズ・リスク行動の定義が曖昧であったため、同性愛歴のあるドナー希望者が、自分にはエイズのリスクはないと感じて献血に踏み切る可能性があった。

スタンフォード大学血液センターのスクリーニング検査方法は、コストがかかり、手作業で行わなければならなかったが、スタンフォードでは、すでに免疫学研究を行っており、フローサイトメーターと適切な実験環境を利用できたため、比較的容易に実施できたと考えられる。

この頃、米国赤十字社(ARC)、米国血液銀行協会(AABB)、地域血液センター協議会(CCBC)は、輸血によるAIDS発症のリスクを「100万分の1」と推定する共同声明を発表している。これは楽観的すぎる見解であったことが判明した。

2年後の1985年に初めてHIV抗体検査が可能になると、米国の大都市圏では献血の700単位に1単位がHIVに感染していることが判明したという。サンフランシスコでは、その頻度は100人に1人に近かった。

1983年から1985年にかけて発生した輸血関連HIV感染の総数は、少なくとも10,000〜20,000件と推定される。私たちのテストが使用されていれば、これらのケースのほとんどは回避できたと思われます。

と、イングルマン博士は語った。

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7月5日

日本での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連血友病患者が帝京大学においてカンジダ症で死亡最新記事

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7月12日

日本での出来事薬害エイズ関連報道・マスコミの対応各紙、安倍英厚生省エイズ研究班班長の受け持つ血友病患者の死亡を報道最新記事

安部英・厚生省エイズ研究班班長が受け持つ死亡した血友病患者が、エイズを発症していた疑いがあると、新聞各紙が報道。

朝日新聞「AIDS国内に上陸の疑い。五十代男性血友病患者、今月死亡、似た症状」

読売新聞「日本にもAIDS患者? 東京で50代男性、今月死亡。輸入血液凝固剤投与」

毎日新聞「AIDS患者いるか? 厚生省研究班きょう会合、疑惑の3例を検討。不安広がり『もしや』の相談も」

サンケイ新聞「『AIDS』日本上陸か、酷似の免疫機能低下徳島大でみつかる、血液製剤使い治療の子供2人」

朝日新聞の記事では、「多数の人の血液を混ぜる血液製剤に、AIDS患者の血液が混じる可能性がある。AIDSが血液製剤から感染されることは証明されていないものの、『AIDSの病原体が血液製剤に潜みつつある』ことが一部で疑われている」と血液製剤によるAIDS感染の可能性について触れている。

一方、安倍は「この患者は症状からみてAIDSの疑いがあることは確かだが、現時点断定することはできない。血液製剤を日本の三、四倍使う米国の血友病患者でも、AIDSの発症率は1000人に1人くらいのもので、日本の血友病患者にAIDSが次々と発生するとは思われない。しかし、将来のことを考え、日本も血液製剤を自国民の献血でまかなえるようにすべきではないか。」とコメントしている。

参考・引用

7月19日

新聞各社、AIDS患者確認断定見送りを報道

朝日新聞「AIDS上陸を否定、厚生省研究班、病院に相談窓口も

朝日新聞は、厚生省の今後の対応として、四、五カ所の病院に電話による専門窓口を設けること、全国の病院からいくつかを選び、研究班の診断基準をもとにAIDSの疑いのある症例を報告する監視システムを始めるとの報道。

読売新聞「『AIDS』に厳戒体制

読売新聞は、厚生省では今後、血友病患者の多い施設に対する調査を進め、近く各都道府県を通じて市町村窓口などでAIDSの実態を知らせて一応の注意を呼びかけるとの記載。

日刊スポーツ「日本も灰色?AIDS上陸ご免だ!

日刊スポーツでは、血液製剤輸入の大手であるカッタージャパン社ではAIDS研究資料を作り血友病患者に配布、全国ヘモフィリアの会でも海外から資料を大量に集め自衛手段を必死に考えているとの報道。

共同通信「AIDS患者と診断できず、厚生省研究班が協議

共同通信では、海外旅行者などがリスクグループとの濃厚な関係を避けるよう国民にPRするほか、不安を持つ市民の相談窓口を数カ所設置することを決めたとの報道。

日本経済新聞「AIDS、患者確認できず、厚生省研究班が診断基準

毎日新聞「AIDS、ひと安心

サンケイ新聞「『日本上陸』断定できず

東京新聞「現在、日本上陸はなし。AIDS患者、厚生省、診断基準作る

参考・引用

8月19日

日本での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連死亡した血友病患者のAIDS認定見送り最新記事

エイズ研究班帝京大学症例を検討し、米国疾病管理予防センター(CDC)の診断基準(1983年3月15日)により「疑似否定形例」と判定し発表。

参考・引用

8月20日

日本での出来事報道・マスコミの対応研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連セクシュアルマイノリティ関連「二人、改めてシロ 厚生省エイズ研究班」朝日新聞最新記事

ただし、この患者は、1985年に「第1号患者」として遡って認定。このときに認定しなかった理由としては、米国疾病管理予防センター(CDC)の診断基準にあった、ニューモシスチス・カリニ肺炎やカポジ肉腫を発症していなかったためとされている。

当時、この患者が「第1号」にならなかったことは、薬害エイズの側面、男性同性愛者差別の側面の双方から、非常に問題視されている。

薬害エイズの側面としては、非加熱血液製剤とエイズの因果関係について、この時点で専門家らは、血液製剤からエイズに感染することは証明されていないし、また、次々に発生することはないという認識だったようである。

男性同性愛者差別の側面では、1985年に男性同性愛者の患者が「第1号患者」に認定されたことにより、日本のエイズが男性同性愛者の問題とされ、血友病患者の問題が隠されたと言われている。

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タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアルマイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。