HIV/AIDSの歴史
1983年

ウイルス発見

1983年

1月1日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン初のエイズ専用外来診療所を開設

カリフォルニア大学サンフランシスコ校と提携し、サンフランシスコ総合病院に世界初のエイズ専門外来クリニック「86病棟」が開設された。1983年6月には、入院用AIDS病棟5Bが開設される。

AIDS治療のパイオニアであるポール・ボルベルディング博士、ドナルド・エイブラムス博士、コンスタンス・ウォフシー博士によって設立されたこのクリニックは、エイズ患者の治療に情熱を傾けるスタッフが集った。

思いやりと敬意をもって患者に接すること」「1つの施設でさまざまな医療・福祉サービスを提供すること」「地域の保健所やコミュニティ組織と密接に連携すること」を重視し、医療だけではなく快適にすること、エイズとともに生きるためのさまざまな課題に対処するために必要なリソースを提供すること、厳しい社会的スティグマに直面している患者が尊厳をもって生き、最後を迎えることを可能にすることに焦点を当てた全人的アプローチの「サンフランシスコ・モデル・オブ・ケア」を開発。

この思いやりのあるモデルは、HIV-AIDS患者の治療における卓越した基準を定め、世界中の医療関係者に採用された。

今後このクリニックでは、年間数千人の患者を診ることになった。

参考・引用

1月4日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(海外)薬害エイズ関連米CDC、AIDSと血友病に関するデータを米赤十字と共有

米国公衆衛生局は、血友病患者の日和見感染に対処するため、米国疾病対策予防センター(CDC)が招集し、血液サービスコミュニティのメンバー200人が参加する会議を開催。 この会議で、赤十字と他の血液供給組織は、血液供給内のエイズ・ウイルスの表示に関する予備データを受け取る。

この会議で、CDCの科学者たちは、血液銀行に対し、ドナーにリスク行動を質問し、献血を一連の検査にかけるなど、ドナーのスクリーニングを実施するよう勧告。しかし、膨大なデータを前にして、血液銀行と血漿会社では、それぞれ異なる計画を立てていた。

血液銀行各社は、リスクの大きさを軽視し、CDCの証拠はHIVが血液を媒介する病気であることを決定的に示していないと判断し、感染の可能性のあるドナーを選別することを拒否することになった。血液銀行の医師たちは、性感染症クリニックに通う同性愛者について、B型肝炎抗体とAIDS症例の相関を示したCDCのデータの妥当性に疑問を呈した。

一方、血漿メーカー各社は、自社製品からHVIが感染している可能性が高いというCDCの見解に同意した。そして、供給元の切り替えや、血漿中のウイルスを不活性化する新しい方法の導入に迅速に取り組んだ。しかし、古い製品も市場に出回ることになり、結局、市販の血漿で多くの人が感染することになった。

血液や血漿をドナーから取り出し、別の人に安全に供給することは複雑なプロセスが必要であり、赤十字社のような血液銀行は、その供給のほとんどすべてを自発的な献血から得ている。赤十字社は、提供された血液を処理し、病院に配布し、病院は対価を支払う。

米国では毎年約1400万単位の献血が行われ、米国赤十字社が約45%、血液銀行が約42%、病院が11%、残りわずかな血液は輸入され、年間約360万人が輸血を受けている。

1970年代、血液の収集と輸血は、特に供給される血液に肝炎が蔓延しているなど、さまざまなリスクを抱えてた。1982年後半、血液製剤を通じて新しい病気が蔓延している可能性を示す証拠が出始めると、事態はより複雑になった。

血液銀行の科学者たちは、AIDSが血液供給に対する脅威であることを認めたが、そのリスクを測定することは困難であると判断。米国の監視システムは、AIDSのような潜伏期間の長い病気を特定するのに適していなかった。

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1月7日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン米国で初の女性のAIDS症例

米国疾病対策予防センター(CDC)の「疾病率および死亡率週間報告(MMWR/Morbidity and Mortality Weekly Report)」が、女性のAIDSの最初の症例「後天性免疫不全症候群(AIDS)男性の性的パートナーの女性における免疫不全(ニューヨーク)」を報告。

記事では、AIDSと診断された男性の性的パートナーでだった女性2人の症例を紹介。

1人目のケースは、37歳の黒人女性が1982年6月に体重を減らし始め、その1ヵ月後に口腔カンジダ症とリンパ節の腫れを発症。検査の結果、彼女はニューモシスチス・カリニ肺炎に加え、リンパ球減少症、Tヘルパー細胞の枯渇を患っていた。彼女は静脈内麻薬の使用者ではなかったが、1976年からの性的パートナーに静脈内麻薬の乱用歴があったという。女性のパートナーは1982年11月にAIDSで死亡していた。

2人目の症例では、23歳のヒスパニック系の女性が1982年初頭にリンパ節の腫れを発症した。検査では、免疫グロブリン値の上昇、リンパ球減少、T-ヘルパー細胞数の減少、T-ヘルパー/サプレッサー細胞比の減少がみられた。彼女には、免疫抑制に関連する病気や治療の既往はなかった。1981年の夏以来、彼女の唯一の性的パートナーは、1981年にAIDS関連症状を発症したバイセクシャル男性であった。

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1月26日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連CDCと赤十字の見解が対立、血液検査の遅れに

1月4日に行われた米国疾病予防管理センター(CDC)主催の血友病患者の日和見感染症に関する会議の後、米国赤十字社から血液供給製品のスクリーニングに強く反対する内容のメモが発表された。

米国赤十字の1月4日の会議後の社内メモで「CDCはAIDSをごまかし続けるだろう」と非難。

「CDCが存在を正当化するために、より大きな疫病が必要になってきていることは、長い間指摘されてきたことである。CDCが誤っているということを、血液供給業界が結束して明確に証明しない限り、一部の国民は血液供給業界が公共の利益に反しているように見るだろう」と書かれています。

1982年の中頃から後半にかけて、血友病患者のエイズ症例が初めて報告され、乳児での最初の輸血関連エイズ症例も含まれていたことから、ドナーのスクリーニング問題が発生した。

そのため、1982年12月から1983年12月にかけて、血液や血液製剤によるAIDS感染の脅威を減らすため、血液供給業界が新しいドナーのスクリーニングと、供給延期を決めるための2つの重要な会議が開催された。

1つは、1月4日のCDCが招集した公衆衛生局の会合である。この会議は広く知られ、米食品医薬品局(FDA)、国立衛生研究所(NIH)、全米血友病財団、全米ゲイ・タスクフォース、血液銀行、血漿メーカーの代表など200人以上が出席した。

このとき、血液供給業界は、血液供給源に感染性物質が存在する可能性に関するデータを初めて入手した。CDCの科学者たちは、血液銀行に対し、特定のドナー・スクリーニング対策(ドナーにリスク行動について質問する、献血を一連の検査にかけるなど)を実施するよう勧告した。

しかし、CDCのデータの妥当性に難色を示し、CDCがAIDSに関する信頼できる情報源ではないと。会議の後、米国赤十字の職員は、CDCからの勧告に抵抗するよう同僚に勧めることになる。

血液銀行がドナースクリーニングの実施に抵したことは、AIDSの初期段階での感染抑制についての重大な失敗と見なされるようになった。

もうひとつは、1983年12月15日から16日にかけて、米食品医薬品局(FDA)の血液製品諮問委員会が、HIVの代替マーカーテストでのあらゆる可能性を検討する会議の開催である。この会議は、CDCが血液供給の安全策を講じる手段として、血液スクリーニングを実施する必要性を訴える2度目の試みであったという点で重要な会議だった。

この2つの会議が開催された間の1年間は、血液銀行はスクリーニング無しで献血を集め続けていた。

参考・出典

2月6日

海外での出来事報道・マスコミの対応ニューヨーク・タイムズ紙、エイズに関する初の詳細な記事

ニューヨーク・タイムズ紙が、エイズに関する初の詳細記事「A New Disease's Deadly Odyssey(新たな病の死のオデッセイ)」を発表。

この記事では、「今世紀で最も毒性の強い伝染病」であるウイルスが、「大都市の同性愛者コミュニティ」で蔓延し、血友病患者の死因の第2位を占めるようになったことを説明。

米国疾病対策予防センター(CDC)のエイズ対策本部長であるジェームス・W・カラン博士は、ニューヨーク・タイムズ紙の記者に対し、エイズはアメリカの主流に移行しつつあり、科学者はいまだに病気の原因や蔓延を止める方法を特定できていないと語った。

「AIDSの発生率は過去1年間でほぼ3倍になり、週に約7件程度だった新規感染者数が週に20人以上になっている」と、カラン博士は最近発表されたデータを引用し、「1982年12月にCDCが受け取ったエイズ患者の報告数は92件で、前月に比べ約3分の1増加している」と述べている。

またこの記事では、CDCがAIDSの原因を特定するための苦心を紹介し、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミの4カ所の発生地の焦点を当て、20名の常勤の医師と、80名の非常勤の専門家の協力で研究が行われていることを紹介。

研究者たちは、この病気の広がりを広う追跡することができると、記事は述べている。

1981年の春から、ニューヨーク市の臨床医たちは、通常は地中海沿岸地方の高齢男性に見られる、極めて稀な癌であるカポジ肉腫を発症している、驚くほどの数の若い男性患者を見かけるようになった。

ほぼ同時に、ニューヨーク市内の感染症専門医は、別の希少疾患であるニューモシスチス・カリニ肺炎の急増を指摘していた。毎週、市衛生局が主催する医師が最も困惑している症例を発表する市全体の感染症会議で、医療関係者がこれらの症例について情報を共有するようになった

1981年半ば、米国疾病対策予防センター(CDC)はこれらの異常な症例を調査するための特別タスクフォースを結成し、6月と7月に「疾病率および死亡率週間報告(MMWR/Morbidity and Mortality Weekly Report)」に最初の調査結果を発表した。当時確認された116人の患者のうち、約30%がカポジ肉腫、約50%がニューモシスチス・カリニ肺炎、約10%がその両方であった。残りの10%は、通常、免疫抑制患者にも起こる異常な感染症を持っていた。

比較の結果、13人の症例者のうち9人に共通の性的接触者がいたことが判明した。これがいわゆる「ロサンゼルス・クラスター」と呼ばれるエイズ患者である。その後、ロサンゼルスとニューヨークの間にミッシング・リンクが発見された。ニューヨークの患者が、ロサンゼルス・クラスターの4人の男性とAIDSを発症したニューヨークの4人の男性も性的パートナーであったことが特定された。

広く読まれている記事では、活動家のラリー・クレイマーの言葉を引用した。「ゲイでニューヨークに住むということがどういうことか、あなたにはわからないでしょう。戦時中のようなものだ。いつ爆弾が落ちてくるかわからないんだ。」。

クレーマーは、この1年半で18人の友人をエイズで失い、さらに12人が重い病気にかかっていると語った。「医師や精神科医は、新しい交際の方法を学ぶよう地域社会に懇願しています。彼らは、亡くなった人たちの名において、デートの仕方を学べと懇願しているのです」とクレイマーは言う。

またこの記事では、全米の血液供給が安全かどうかという問題にも触れている。当時、CDCはエイズに感染した血友病患者の報告を計8件確認し、うち6人が死亡している。

米国血液銀行協会の輸血感染症委員会の委員長で、エール大学医学部の実験医学教授であるジョセフ・ボーブ博士は、「私は心配で心配で仕方がない」と言う。「しかし、科学者として、私は証拠を見なければならない。そして、その証拠は、普通の輸血はエイズを感染させないというものです。」

ボーブ博士は、エイズが確認されてからの2年間に輸血を受けた人の数が2000万人であることを挙げ、「血液によって広がるエイズの流行はない」と主張した。

CDCのAIDS部門のディレクターであるブルース・L・エヴェット博士は、「リスクは低いように見えるが、大幅に増加する可能性がある」と付け加えた。

記事が掲載された時点で、CDCはエイズ・ウイルスに感染した958人の報告を受けており、365人がすでに発病していた。

参考・引用

3月4日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンCDCが「4Hの病」と発表

CDC(米国疾病対策予防センター)MMWR(羅漢率と死亡率週報)で、AIDSの「最もリスクが高い」と認識している4つのグループ
○複数の性的パートナーを持つ同性愛男性(Homosexual)
血友病患者(Hemophiliacs)
○静脈性薬物のヘロインなどの乱用者(Heroin)
○特に過去数年以内に米国へ入国したハイチ人(Haitians)
の頭文字を取って、4つのHと特定して発表した。

これ以降、医学論文や報道で引用され、これらのグループに属する人々には、汚名が着せられることになった。

ゲイ・コミュニティの多くは、この情報を元々は農業青年グループを指していた「4Hクラブ」と呼び、再定義した。

「4Hクラブ」とは、将来の農業を支える若い農業従事者が中心になって組織され、さまざまな活動を行うグループを指していた。農業の改良と生活の改善に役立つ腕(Hands)を磨き、科学的に物を考えることのできる頭(Head)の訓練をし、誠実で友情に富む心(Heart)を培い、楽しく暮らし、元気で働くための健康(Health)を増進するという、同クラブの4つの信条の頭文字を総称したものだった。

この報告書が発表された当時は、米国の研究者たちはまだこの病気に困惑し、患者の免疫力低下は、血液を介して人から人へと受け継がれる生物学的物質が原因である可能性を探っていた。

CDCはこの報告書の中で、「入手可能なデータは、AIDSの基礎となる免疫調節の深刻な障害は、伝染性の病原体によって引き起こされることを示唆している」と述べている。

さらに、リスクの高いグループのメンバーには、血液や血漿の提供を控えるよう勧告している。

「原因が不明である限り、AIDSの自然史を理解して予防策を講じることは難しい。しかし、上記の推奨事項は、AIDSに感染するリスクを低減するための慎重策である。」と述べている。

参考・引用
海外での出来事国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連米食品医薬品局(FDA)、加熱製剤の開発を指示

AIDSが感染した血液や血液製剤を介して感染しており、出血性疾患患者や血液製剤を使用する人々全体が感染の危険にさらされているとするMMWR(羅漢率と死亡率週報)を発表し、CDC(米国疾病対策予防センター)は血液供給の安全性を保つために直ちに講じるべき措置を勧告。

米食品医薬品局(FDA)はこの発表を受け、凝固因子の熱処理のライセンスの承認を開始。

米国の複数のメーカーが、熱処理した凝固因子の開発を開始する。

参考・引用

3月

海外での出来事国や政府の対応(海外)人物カリフォルニア州のAIDS政策をリードしたスタン・ハデン

カリフォルニア州上院議長代理デイビッド・ロベリの事務所のスタッフだった26歳のスタン・ハデンが、カリフォルニアAIDS諮問委員会の設立と州全体のエイズ教育への資金提供の仕組み作りを主導。

中でも、カリフォルニアAIDS諮問委員会を設立する上院法案910号の成立を監督。この法案には、50万ドルの初期予算が含まれており、保健サービス省を通じて、資金を切実に必要としていた州のコミュニティ・プログラムに割り当てられた。

このプログラムに割り当てられた金額はわずかだったが、州が財政危機のため多くの医療プログラムが予算削減に苦しんでいた時期に、少しでも資金を確保できたことが大きな成果だった。

1983年3月、ロベリ上院議員は上院法案910号のメリットをアピールするため、「AIDSは国家的緊急事態である」とマスコミに語った。

以前は健康だった同性愛の男性、ハイチからの移民、静脈注射の薬物使用者の間で流行しているが、この病気にかかった人の6%は、同性愛者でも静脈注射の薬物使用者でもハイチ人でも血友病患者でもない。

当時、議員がAIDSについて教育を受けるのは珍しいことだった。議員がAIDS対策が急務であることを認識したのは、ハデン氏の働きかけとアドボカシー、そして選挙区がハリウッド地区であったことが大きく影響していると思われる。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校の臨床助教授だったスティーブン・モーリンによって1986年に出版された「What to Do About AIDS(エイズにどう対処するか)」の「Public Policy and Mental Health Issues(公共政策とメンタルヘルス問題)」の章によると、ロベリ上院議員の法案は、ハデンによって調査・起草されたもので、AIDS危機の初期にカリフォルニア州がとった最初の重要な行動だった。

同じ頃、カリフォルニア州議会は、エイズ研究に取り組むカリフォルニア大学への290万ドルの追加資金を推し進めた。サンフランシスコを選挙区とするウィリー・ブラウン下院議長は、エイズの原因究明に取り組む大学の研究者たちと会合を持ち、カリフォルニア大学の予算への割り当てを発表。

スティーブン・モーリン談

上院法案910号は、非常に多くのアドボカシーを必要とした。1983年4月、この法案を支持するために州都を訪れた際、1982年12月にカポジ肉腫と診断された友人で精神科ソーシャルワーカーのゲイリー・ウォルシュと一緒になった。AIDSは最近「ニューズウィーク」誌の表紙を飾ったが、私たちが会った議員の半数以上はAIDSという言葉を聞いたことがなかった。

研究の初期のブレークスルーの多くはカリフォルニア大学から生まれ、この努力によって資金が供給された。

例えば、AIDSの原因となるレトロウイルスの発見は、カリフォルニア大学デイビス校で行われたものです。その後、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のジェイ・レヴィの研究室で、AIDSの原因となるレトロウイルスが分離された

1985年、ハデンは地域のHIV/AIDSプログラムとサービスに協調的なアプローチをもたらす州法のスタッフとして活躍。カリフォルニア州上院法案1251号は、1986年にエイズ医療プログラムに約1700万ドルの資金を割り当て、さらに、州は連邦予算のうち500万ドル以上を研究プロジェクトと疫学調査に充てた。

立法スタッフたちは、ハデンをカリフォルニアの「非公式なエイズの皇帝」とみなした。彼は、サクラメントでゲイであることを公言している数少ない人物の一人だった、とジャーナリストのカレン・オカムブは後に『プライド』に書いている。カリフォルニア州議員の事務官や政治家の側近の多くは、自分の性的アイデンティティを公にすることで職業上のキャリアが絶たれることを恐れ、クローゼットに閉じこもったままであった。また、LGBTであることを自覚している選挙関係者や候補者も、まさに破滅の現実を前にして沈黙を守っていた。

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3月14日

海外での出来事市民運動など民間の動き人物ラリー・クレイマー、「1,112 and Counting」を発表

AIDS活動家のラリー・クレイマーは、AIDSがゲイ・コミュニティに与える影響について、ニューヨーク・ネイティブ紙に辛辣な評価を発表。このエッセイ「1,112 and Counting」で、病気や瀕死のゲイに対する政府の支援の欠如や、エイズの原因究明における科学の進歩の遅さに対して、そのコミュニティが怒るよう必死に訴えた。

タイトルの「1,112 and Counting(1,112とカウント中)」とは、この病気が流行り始めた頃には41人しかいなかった重篤な後天性免疫不全症候群の症例が、執筆時には1,112例あり、死者も猛烈な勢いで増えていることから付けられた。

もしこの記事があなたを脅かさないなら、私たちは本当に困ったことになります。この記事を見て、怒り、憤慨し、激怒し、そして行動を起こさなければ、ゲイの男性にはこの地球上に未来はないかもしれない。私たちの継続的な存在は、あなたがどれだけ怒ることができるかにかかっているのです。

このエッセイは、クレイマーが生涯をかけて取り組んできた活動やアドボカシーの始まりにすぎなかった。その後、エイズ危機を初めて本格的に描いた戯曲「ノーマル・ハート」を執筆し、公衆衛生政策やHIV/AIDSに対する人々の意識を変えたと広く認められている抗議団体「ACT UP」を設立することになりました。

アンソニー・ファウチ博士は語った。

ラリーがこの国の医療を変えたことは疑う余地がない。そして、より良い方向への変化を促した。アメリカの医学には2つの時代がある。ラリー以前とラリー以後だ。

3月30日には、新たなゲイ雑誌で隔週刊のニュース雑誌「Frontiers」は表紙に「1,112 and Counting」を掲載。

病気で亡くなった20人の友人の名前を列挙した後、クレイマーは「この言葉が印刷される頃には、もう一人死んでいるだろう」と書き、最後に「市民はこの状況に対抗するためにボランティアが必要だ」と訴えた。

アメリカでは1983年末までに、2,807人のHIV感染者とAIDS患者、および2,118人の死者が報告された。

参考・引用

4月1日

海外での出来事人物NYのファッション界に衝撃

当時、最も人気があった男性スーパーモデルのジョー・マクドナルドが、ニューヨークでAIDS関連の病気のため37歳で亡くなった。彼は、アーティストのアンディ・ウォーホールや写真家のブルース・ウェーバーの被写体やモデルにもなり、多くの作品を残している。

1970年代からの短髪で筋肉質、健康的で清潔感のある男性像を主導したメンズ・ファッション誌GQの表紙を飾るなど頻繁に登場。最初の男性スーパー・モデルと言われている。

1983年初頭、マクドナルドの最後のモデル活動として、ニューヨーク・タイムズのファッション・サプリメントに掲載された彼の写真を見た友人たちは、マクドナルドの外見があまりにも変わっていることにショックを受けたという。マクドナルドと個人的に交流があったモデルのスージー・ギルダーは、1983年6月に出版されたニューヨーク・マガジンの記事で、「彼はとても老けて見え、目がとても悲しそうだった」と語っている。

Vogue誌が2020年に行ったエイズ危機の回顧展で、ファッションデザイナーのマイケル・コースは、マクドナルドを「エイズで亡くなった最初の有名人」と回想している。

私たちが最初にHIV/AIDSについて読んだり聞いたりし始めたとき、人々はこの病気に差別がないことを認めたがらなかった。

若くて健康で、清潔な生活を送っていれば、感染することはないだろうと思っていた。そして、ジョー・マクドナルドのような人たちを見て、これは一部の人達のことではないと気づいたのです。そのとき、現実はとても厳しくなったのです。

ファッション業界初のエイズ犠牲者として、マクドナルドの死のニュースは、ニューヨークに衝撃を与えた。

GQの表紙のジョー・マクドナルド
GQの表紙のジョー・マクドナルド
(引用:"A esquecida tragédia do top model Joe MacDonald" POPZONE
参考・引用

4月30日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連輸血後の乳児が日和見感染症を発症

医学雑誌ランセットが、生後6ヶ月後に複数の日和見感染症を発症した乳児の症例について報告。

アカゲザルなどのマカク属のサルから感染するBウイルス病のため、生後数日間に複数回の輸血を受けた乳児が、6ヶ月後に再発性感染症を発症、生後14ヶ月までに肝炎、鵞口瘡、カンジダ皮膚炎、中耳炎、播種性アビウム菌感染症を発症していた。

献血時に元気だった献血ドナーの1人が、17ヵ月後に多発性日和見感染症と後天性免疫不全症で死亡していたことが判明。

症例の臨床検査所見から、輸血により伝達性感染因子を獲得し,後天性免疫不全をもたらし、この血液製剤がサイトメガロウイルス、エプスタインバーウイルス、またはB型肝炎ウイルスではなかったことを示唆している。

参考・引用
海外での出来事市民運動など民間の動きサーカス・イベントで25万ドル集まる

世界最大規模で知られるサーカス団リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスが、AIDSサポート団体のゲイ・メンズ・ヘルス・クライシスのために、一夜限りのスペシャル・イベントを開催し、25万ドルの寄付を集めることに成功した。

HIV/AIDSコミュニティにとって政治的な転換点とされるこのイベントは、約18,000人の参加者を集め、LGBTQと拡大するAIDSコミュニティに活気を与える効果で注目を集めた。

ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催され、エド・コッホ・ニューヨーク市長のオープニング・スピーチで始まったこのショーでは、「ウエスト・サイド物語」などの作曲でも知られる世界的な指揮者レナード・バーンスタインがサーカス・オーケストラを指揮し、オペラ歌手のシャーリー・ヴェレットが米国国家を歌った。

レナード・バーンスタインが白いディナージャケットを着てマディソン・スクエア・ガーデンを横切り、18,000人のゲイとその友人や家族が歓声を上げる中、サーカス団の国歌を指揮したことは、私がこれまで経験した中で最も感動した瞬間でした

活動家で組織者のラリー・クレイマーは、1989年に出版した「Reports form the Holocaust(ホロコーストの報告)」でそう回想していた。

このイベントの収益は、「ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス」のプログラム支援に大きく貢献した。同団体はすでに25万部のセーファーセックスのパンフレットを配布し、AIDSにかかった男性に家事援助や思いやりのあるケアを提供する数百人のボランティアを組織していた。

しかし、デイヴィッド・ローマンが著書「Acts of Intervention(介入行為)」の中で語っているように、このイベントは単なる資金調達以上のものだった。ローマンは書いている。

1983年、エイズへの啓発と介入を支持する17,000人以上の人々が、しかもサーカスで集まったことは、政治的に画期的なことであったし、そうでなければならなかった

1983年4月30日の公演ポスター
1983年4月30日の公演ポスター
(引用:"Coming of Age During the AIDS Crisis — Chapter 2" MAKING GAY HISTORY
参考・出典

5月

海外での出来事市民運動など民間の動き人物小冊子「伝染病下でセックスする方法」出版最新記事

この小冊子「How to Have Sex in an Epidemic(伝染病下でセックスする方法)」は、自らがエイズ患者であるニューヨーカーのリチャード・バーコウィッツマイケル・カレンによって書かれたもので、セーファー・セックスの実践をいち早く推進し、コンドームの使用に関する鋭いアドバイスやエイズ患者の自己啓発を促すなど、画期的なものだった。

特に、男性とセックスする男性の性感染症の感染を防ぐためにコンドームの使用を推奨した最初の出版物の1つであり、現代のセーファー・セックスの出現における基礎的な出版物の1つと考えられている。

「How to Have Sex in an Epidemic(伝染病下でセックスする方法)」は、ニューヨークに住むゲイの男性に広く読まれ、エイズに関する混乱と絶望が渦巻く中でゲイ男性がセックスライフを楽しみながら、致命的とも思える症候群を発症するリスクを回避するための包括的なガイドの登場だった。

それから34年後の2017年、デイヴィッド・フランスは著書『How to Survive a Plague(疫病を生き抜く方法)』の「The Story of How Activists and Scientists Tamed AIDS(活動家と科学者がエイズを飼いならすまでの物語)」の中で、バーコウィッツとカレンのエイズに関するコミュニティへの啓蒙活動について書いている。

フランスの説明によると、『Sex in an Epidemic』はもともと、バーコウィッツがゲイであることを公表していた主治医ジョセフ・ソンナベンド医学博士の医学的指導を受けて、男性とセックスする男性のための新しい「性の倫理」を提案する論文としてスタートしたという。

しかし、彼とカレンがゲイ向けの新聞「ニューヨーク・ネイティブ」に「性的過剰摂取の結果」という記事を書いたことで不当に得た「セックス否定派」という評判のため、この論文を掲載してくれる出版社を見つけられずにいた。

心の奥底では、自分たちが何者で、なぜ病気なのかを知っている」と、彼らはネイティブ誌の1982年11月8日号に寄稿し、この記事はネイティブ紙の読者だけでなく、トロントの新聞「ボディ・ポリティック」など北米のゲイ雑誌からも怒りの批判を浴び、コミュニティに不必要なパニックを引き起こしたと非難されていた。

それでも、セックスワーカーであったことを公言していたバーコウィッツは、「命を救う方法を見つけたい」という思いをこれまで以上に強くしていた。新しい執筆プロジェクトでは、彼とカレンがネイティブ紙の記事で打ち出したものとは異なるアプローチを取ることにした。

今回、バーコウィッツはセックス・ポジティブなメッセージに重点を置いていた。ゲイがやってはいけないことではなく、ゲイが安全にできる親密さの情報を共有したかったのだ。バーコウィッツが提案した記事をゲイ出版社が拒否したとき、ソナベンド博士は「左翼やフェミニストの政治的小冊子を模した」小冊子として情報を提供することを勧めたとフランスは述べている。

このときに、マイケル・カレンがこのプロジェクトに参加することになった。彼とバーコウィッツは、ソンナベンド博士のオフィスやカレンのロフトに集まって「Sex in an Epidemic」の制作に取り組んだ。カレンのパートナーであるリチャード・ドワキンも、編集内容の組み立てに協力した。彼らのプロセスは、Native紙の記事へのアプローチにおける痛恨のミスを再検討し、ソウル・アリンスキーの「Rules for Radicals(過激派のためのルール)」など、人に影響を与えるための手引きから学んだ教訓を適用するというものだった。

彼らが自ら課した使命は、大げさで、ほとんど過激なものだった」と、フランスは書いている。「セーフ・セックスが流行を食い止めるためには、ゲイ男性のコミュニティ全体に受け入れられなければならない、つまり根本的かつ普遍的な行動の変化である。こうして彼らは「セーフセックス」と呼ばれるものを発明したのです」。

カレンとバーコウィッツは、すべてのアドバイスがセックスに肯定的であるように気を配った。彼らは、さまざまな性行為のリスク評価において、率直で遊び心のある言葉を使い、AIDSやその他の性感染症を防ぐ方法として、当時はまだほとんど使われていなかったコンドームの使用を推進した。さらに、「愛」についての一節も含まれている。

男性が男性を愛することは、ゲイの男性解放の基礎であったが、我々は今、愛や愛情さえも完全に避けることができる文化施設を作り上げた」と彼らは書き、読者が性的な親密さの対象を愛しているならば、たとえそれがほんのわずかな関係であっても、彼らを病気にさせたくないと思うはずだ、と忠告した。

こうして、46ページの「Sex in an Epidemic」初版5,000部には、カレンをはじめとするソンナベンド博士のAIDS患者たちからの寄付で、約1,000ドルが費やされた。バーコウィッツ、カレン、ソナベンドの3人は、ニューヨーク市内で、主にゲイの男性がよく行く店やバーで配布した。

すると、数週間もしないうちに小冊子に記載した郵便ポストに手紙が届くようになった。ネイティブ紙の記事と同じようなゲイ解放運動の裏切り者として非難するヘイトメールではなく、自分たちの作品に感謝し、全米各地に送ってほしいという手紙が届き、毎週増える需要に応えるため、すぐに増刷することになった。

8月18日、ジョナサン・ライバーソンが「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」に「Sex in an Epidemic」の書評を寄せた。その直後、グリニッジビレッジのB.ダルトン書店は、46ページのガイドをウィンドウディスプレイし、「Sex in an Epidemic」は注目を集めた。

噂は広まり、何よりも、ゲイ男性がコンドームを使うようになった。

コンドームメーカーは、ゲイの多いコミュニティでの消費者の需要に応え、市場にアピールするさまざまなサイズ、質感、色の新製品を開発した。その結果、すべての性感染症の感染率が低下し始めた。

「Sex in an Epidemic」
「Sex in an Epidemic」
(引用:"How to Have Sex in an Epidemic (May 1983)" Richard Berkowitz
参考・引用

5月2日

海外での出来事市民運動など民間の動きサンフランシスコとニューヨークでキャンドルヴィジルを開催最新記事

カポジ肉腫財団がニューヨークとサンフランシスコで初のAIDS Candlelight Vigilを開催し、AIDSと共に生きる人々との最初のデモを行い、このイベントの写真は世界中を駆け巡り、多くの人が健康への危機感を募らせていることを明らかにしまし、疫病に対する世界的な認識を広めることになった。

ボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・ターナー、マーク・フェルドマンの4人の若者は、自分たちがAIDSのために1年以内に死ぬことが分かっていたため、「Fighting For Our Lives」のメッセージで警戒行動をコーディネートし、「病気に顔をつける」ことを決意した。

4人は、サンフランシスコのゲイ地区カストロから市庁舎までの行進を計画し、ポスターを作成。他の参加者も加わり、キャンドルライトは約1万人が「fighting for our lives」と書かれた横断幕を掲げ、カストロから市庁舎まで何時間もかけて歩いた。

この活動は、他の国の数え切れないほどのHIV/AIDSとともに生きる人々にインスピレーションを与え、地域社会や国のリーダーの関心をHIVに向けさせ、支援を育み、人々を行動に向かわせる運動に育っていった。

キャンドルライト・メモリアルは、2000年に世界保健協議会が主催するようになるまで、People Living With HIV(PLHIV)主導の組織「Mobilization Against AIDS」によって運営されていた。2008年、世界保健機関(GHC)は、国際エイズ・キャンドルライト・メモリアル25周年を開催し、四半世紀にわたる追悼、コミュニティの動員、そして世界的な連帯を記念。

2011年、国際キャンドルライト・メモリアルは、HIVとともに生きる人々のグローバルネットワークを通じて、HIVとともに生きる人々によって主催・調整され、その出発点に戻ってきた。そのビジョンにおいて、キャンドルライトは、私たちが失った人々を記憶し、HIVとともに生きる人々の人生を祝福するための、市民社会主導の最も重要な取り組みの一つであり続けてる。

1984年以来、国によっては、正確な日付が異なる場合もあるが、国際エイズ・キャンドルライト・メモリアルは、5月の第3日曜日に開催している。

AIDSキャンドルライト・ヴィジルのポスター
AIDSキャンドルライト・ヴィジルのポスター
(引用:"AIDS in New York: The First Five Years | New-York Historical Society" Pinterest
ボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・ターナー、マーク・フェルドマン
「Fighting For Our Lives」のメッセージを持つボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・ターナー、マーク・フェルドマンの4人
(引用:"Image / Bobbi Campbell, Bobby Reynolds and others marching with Fighting For Our Lives ..." CALISPHERE
参考・引用

5月3日

海外での出来事市民運動など民間の動きキャンドル・マーチ、全米に広がる最新記事

ニューヨークとサンフランシスコでキャンドルマーチが行われた翌日には、APLA(AIDS Project Los Angeles)主催によりロサンゼルスでも開催され、5,000人が参加した。

その後、ボストン、シカゴ、ダラス、ヒューストンでも何万人もの人々が行進に参加した。

ボビー・キャンベル、ボビー・レイノルズ、ダン・チューナー、マーク・フェルドマンは、「病気に顔をつける 」という目標に達成した。

Photo: Mick Hicks, 1983
1983年のサンフランシスコでのキャンドル・マーチ
撮影:ミック・ヒック
(引用:"From Awareness to Activism" San Francisco AIDS Foundation
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5月19日

海外での出来事報道・マスコミの対応人物ABCがTV番組「20/20」でAIDS危機を放送最新記事

アメリカのジャーナリストであり、弁護士、作家、政治コメンテーターのジェラルド・リベラによるエイズに関する初の調査報道である17分間の番組には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ヒューストンでのエイズ追悼集会での数百人の活動家の映像や、エイズ患者であるケン・ラムサール、ボブ・チェッキ、ロン・レシオ、ビル・バークへのインタビューを収録。

1979年にニューヨークとサンフランシスコで発生した最初のエイズ患者から始まり、ゲイの人々、静注薬物使用者、ハイチ移民に発生した初期のエイズの歴史を紹介。

この記事のために、リベラはエイズ危機の最前線にいる数人にインタビューした。その中には、カリフォルニア大学サンフランシスコ医療センターのマーカス・コナント医学博士も含まれ、「アメリカ国民全体」がこの病気について関心を持つべきだと警告している。コナント博士はリベラに対し、エイズの予防と治療の効果的な方法を開発するために研究資金が迅速に割り当てられなければ、エイズは米国で大きな健康危機となるだろうと語っている。

リベラは、「エイズはすでに16の州で診断されている」と伝え、アラビアンナイトの物語に例えて「悪の魔神は壺から出たのだ」と言う。

ニューヨークのGMHC(Gay Men’s Health Crisis)の共同設立者であるラリー・クレイマーにもインタビュー。クレイマーは、エイズ危機を報道しなかったニューヨーク・タイムズ紙を批判し、公務員が報告を義務づけられている伝染病のリストにAIDSを加えなかった米国疾病対策予防センター(CDC)への不満を表明している。

また、ヘンリー・ワックスマン議員が議会の公聴会で、資源と行動が不足しているとしてレーガン政権を批判する映像も含まれていた。

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5月20日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン人物フランスの研究者がAIDSの原因ウイルスを発見最新記事

フランス・パスツール研究所の研究者フランソワーズ・バレ・シノッシジャン=クロード・シェルマンがエイズの原因「かもしれない」ウイルスを特定し、「LAV」(リンパ腺症関連ウイルス)と名付け、医学雑誌サイエンス誌に発表した。

バレ・シノッシは、フランスのウイルス学者リュック・モンタニエの下でこの発見を行い、両者はエイズウイルスの特定により、2008年のノーベル生理学・医学賞を受賞。バレ・シノッシの発見は、最終的に抗レトロウイルス薬の開発につながり、エイズを死の宣告から管理可能な慢性疾患へと変貌させた。

しかし、共同研修者だったジャン=クロード・シェルマンは、ノーベル賞の部門受賞の人数規定のため受賞できず、ノーベル賞の大きな忘れ物といわれた。

翌年、米国の研究者ロバート・ギャロは、エイズの原因であるレトロウイルスHTLV-IIIの「可能性が高い」ものを発見したと発表。フランスのチームがLAVがAIDSの原因であると断言しなかったこともあり、ウイルスの発見をめぐり国際問題にまで発展する。この2つのウイルス(HTLV-IIIとLAV)は、後に同じものであることが判明し、1986年5月に正式に「ヒト免疫不全ウイルス」(HIV)と呼ばれるようになった。

バレ・シノッシは、科学者として、また活動家として、エイズの蔓延を食い止めることにそのキャリアを捧げた。エイズ被害の最前線に立つことは「心理的に非常に厳しい」と彼女は認めている。

そのため、1996年に抗レトロウイルス療法が発見されると、バレ・シノッシはうつ病になり、公の場での活動から手を引いた。しかし、彼女はすぐに戦いに戻り、しばしば世界中を飛び回り、地域の伝染病の解決策を求める政治指導者や医療従事者と会うようになる。

誰もがそうであるように、私にも人生の中で悲観的になる時があるんです。このままでいいのだろうかと…でも、アフリカや東南アジアに行き、HIVに感染している人たちとちょっとしたミーティングをすると、そんな気分も忘れてしまいます。そして、よし、やろう、続けよう。これは現実の生活だ。自分のことは考えるなってね。

彼女は現在、パスツール研究所のレトロウイルス感染制御ユニットを指揮しており、ワクチンや機能的な治療法を今も探している。

1983年2月4日に撮影されたHIV-1エイズウイルスの最初の写真の1つ
1983年2月4日に撮影されたHIV-1エイズウイルスの最初の写真の1つ。エイズに先行する全身性リンパ節腫脹に苦しむ患者で単離されたウイルスに感染したTリンパ球の断面の部分的なビュー。© パスツール研究所 - 写真 シャルル・ドグエ
(引用:"FRANÇOISE BARRÉ-SINOUSSI AND HER RESEARCH ON THE HIV-1 VIRUS" INSTITUTE PASTEUR
参考・引用

タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアル・マイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。