HIV/AIDSの歴史
〜1980年

HIVはどこから来たのか?
AIDSはなぜ世界に広がったのか?
なぜ偏見や差別が生まれたのか?
治療法はどんな進歩をしてきたのか?
その発生から現在の状況まで、
当時の大きな出来事と共に
年表にまとめてみました。
項目は随時追加していきます!
もし記述に間違いなどあれば、
お知らせください!

数百万年〜数十万年前

海外での出来事/研究・医療関連アフリカのサルにSIV発生

1981年、突然米国を震撼させ、現在も流行を続けるエイズの原因ウイルスHIVは、アフリカに生息するサルを自然宿主とするSIV(Simian Immunodeficiency Virus:サル免疫不全症候群)がヒトに種間感染したものとされている。

霊長類レンチウイルスの一種であるSIVは、遺伝情報をRNAで持ち、非常に変異しやすい性質を持っている。

そのため、SIVは自然宿主とは共生関係を築いていたが、他の種の霊長類に感染すると病原性を持つことがあると考えられている。

SIVは、1985年にアラバマ大学のベアトリス・ハーン博士のグループが、マリリンという実験用のチンパンジーの死亡後、その血液と組織を分析し、HIVに似たウイルスを発見、SIVと命名した。

SIV
ヒトAIDSウイルスの起源
(出典/"Origins of HIV and the AIDS Pandemic/NIH")

参考文献

数百年前

海外での出来事/研究・医療関連チンパンジーがSIVに感染

現在のコンゴ共和国、コンゴ民主共和国、カメルーンを中心とするアフリカ中部で、小型のサルを食べたチンパンジーが、SIVに感染

チンパンジーは雑食性で、ときに強い肉食性になるという。そのため、小型のサル(シロエリマンガベイとクチヒゲグエモンまたはモナモンキー)を食べ、この2種類のサルが持つSIVに重感染した結果、組替体を持ち、生殖行為によりチンパンジーのコロニーで広がったと考えられている。

チンパンジー
チンパンジー

参考文献

19世紀後半〜20世紀初頭

海外での出来事/研究・医療関連チンパンジーからヒトへ

1959年頃ベルギー領コンゴ(現・コンゴ民主共和国)で採取されていたウイルスと、1960年頃にキンシャサ大で採取され保存されていたウイルスの相違性を比較すると88%の一致が見られた。

ヒトの生体試料に保存されているHIV-1の配列とウイルスの突然変異率の推定値から、チンパンジーからヒトへのジャンプは、赤道アフリカで急速に都市化と植民地化が進んだ19世紀後半から20世紀前半に起こったと考えられる。

いくつかの分子年代測定研究は、HIV-1が20世紀初頭、おそらく1915年〜41年の間にその最新共通祖先を持ったことを示唆している。

2008年に発表した研究では、共通祖先は1873年〜1933年にあるとし、中央推定値は1902〜21年に変動がある。また特定のHIV株の分子時計から、最初の感染時期を1915〜1931年頃と推定する説もある。

現地民のハンターが感染したチンパンジーを捕獲、解体などする際に、噛まれるなどしてできた傷口などから血液に接触して感染が起こったと考えられている。

当時、中部アフリカでは風土病として「痩せ病(Slim Disies)」と呼ばれる症候群の報告もあった。

1966年頃のキンシャサ
1966年頃のキンシャサ
(出典/"'Perfect storm' turned HIV from local to global killer" NewScientist)

参考文献

1920年(大正9年)〜

海外での出来事/研究・医療関連当時の主な事件や世相アフリカで拡散

1931年〜1933年にフランス人レオン・パルがコンゴの鉄道建設中に死亡した黒人労働者を解剖。50人の死亡者のうち26人にエイズ様の症状を観察。

当時ベルギーの植民地であったレオポルドビル(現:キンシャサ)の急速な都市化による都市への大規模な人口流入が起こり、売春により労働者間に広がったとみられる。

さらにそこへ西洋医学が入り、梅毒などの性感染症や熱帯病風土病を治療する注射針も、感染が広がった原因と考えられている。当時は、血液感染の概念はなく、注射針はアルコール消毒のみで使い回されていた。

また、キンシャサから港に伸びる鉄道によって人の移動が活発化し、そこからコンゴ民主共和国全土、近隣の植民地諸国へ広がった。

キンシャサから拡散の様子
カメルーンからキンシャサへ
(出典/"'Perfect storm' turned HIV from local to global killer" NewScientist)

参考文献

1930年(昭和5年)代〜1950年(昭和25年)代

海外での出来事/研究・医療関連当時の主な事件や世相アフリカから世界へ拡散

Wikipediaから引用

小規模なニューモシスチス肺炎の流行は、1930年代から1950年代にかけて北ヨーロッパと中央ヨーロッパ諸国で単発的に発生し、早産した子供たちに影響を与えました。

感染したガラスの注射器や針の使いまわしが原因で流行が広がった可能性が高い。

特に1950年代に流行が最盛期にあったため、栄養失調は原因とはみなされなかった。当時、戦争で引き裂かれたヨーロッパはすでに荒廃から回復していた。

研究者らは、最も可能性の高い原因は、旧ドイツの植民地であるカメルーンに由来するHIV(またはHIVの軽度バージョン)と密接に関連するレトロウイルスがヨーロッパに持ち込まれたと述べています。

流行は1939年にダンツィヒ自由都市で始まり、その後、スイスやオランダのような1940年代と1950年代に近隣諸国に広がった。

引用元

1959年(昭和34年)

海外での出来事/研究・医療関連後にAIDSと確認された最も古い症例

1959年、コンゴで死亡した人が、保存されていた血液サンプルからHIVに感染していることが確認され、ヒトで最初のHIV感染者となった。

この研究の著者は、「300塩基対以上のHIV-1断片を増幅する試みは失敗した」と書き、彼の試料から完全なウイルスの配列は得られなかった。

引用元

6月

28日
海外での出来事/研究・医療関連NYでジャマイカ系アメリカ人船員がニューモシスチス肺炎で死亡

ニューヨーク市、アルドゥイン・アントニオという49歳のジャマイカ系アメリカ人の海運店員が、エイズと密接に関連する病気であるニューモシスチス・カリニ肺炎で死亡

男性の遺体の死後検査を行ったゴードン・ヘニガーは、「成人における未関連肺炎性カニスチス病の最初の報告例」が非常に珍しいことを発見し、彼は後の研究のためにアルドゥインの肺を保存した。

当初、彼の医師は彼がネバダに行っていたか知りたがっていたが、それは彼が原爆実験の調査に参加して影響を受けたかもしれないと考えたようだった。

この事件は当時2つの医学雑誌に掲載され、ヘニガーはアルドゥインがおそらくエイズにかかったと信じていると多くの出版物で引用されています。

引用
参考文献

8月

31日
海外での出来事/研究・医療関連デヴィッド・カー

英国マンチェスターの王立診療所で亡くなった25歳の船員の男性、デヴィッド・カーはAIDSで死亡した最初の人物だと考えられていた。

彼は西アフリカで過ごした後、英国で急激に健康が悪化し、8月31日にカリニ肺炎で亡くなった。彼の主治医は彼のサンプルを残し、この異常な症例を医学誌「ランセット」の1960年10月29日号で紹介し、1990年にはAIDSであったと確認された。

このことにより、カー氏の症例が最も早く記録されたAIDSの症例となっていたが、実際にはHIV陽性ではなかったと、1995年にニューヨークの医療チームの調査によって覆された。元の研究者は彼のサンプルは汚染されていたと認めた。

デヴィッド・カーのAIDS症例を否定する記事
デヴィッド・カーのAIDS症例を否定する記事
(出典/The New York Times)
参考文献
当時の主な事件や世相1959年(昭和34年)の主な出来事

1960年(昭和35年)〜

海外での出来事/研究・医療関連当時の主な事件や世相アフリカからハイチへ

1960年6月30日、ベルギー領だったコンゴが独立し、コンゴ民主共和国となった。これを機にベルギー人が去り、医師や弁護士として働くためにコンゴへやってきたフランス語を話すハイチ人と入れ替わった。

コンゴ民主共和国軍の参謀総長だったモブツ・セセ・ココは1960年の9月のコンゴ動乱で実験を握り、1965年11月24日にクーデターを起こし、革命人民運動(MPR)の一党独裁体制を確立。

モブツ政権は移民を排除したため、ハイチ人はHIVとともに故国に戻ったと言われている。

また、米国へは1969年頃に持ち込まれたという説が多い。

アフリカからハイチ、アメリカへ
ハイチから米国へ
(出典/"America’s HIV outbreak started in this city, 10 years before anyone noticed" from PBS NEWS HOUR)

参考文献

当時の主な事件や世相1960年(昭和34年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1961年(昭和35年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1962年(昭和36年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1963年(昭和37年)の主な出来事

1964年(昭和39年)

海外での出来事/研究・医療関連AZT(アジドチミジン)を合成

米国デトロイトのウェイン州立大学のジェローム・ホーウィッツ博士は、がんの治療薬としてAZT(アジドチミジン)を合成したが、残念なことにがんの治療には効果を見いだせなかった。

しかし、20年後、最初のAIDSの治療薬として脚光を浴びることになる。

Jerome P. Horwitz博士
Jerome P. Horwitz博士
(引用:The New York times/ウェイン州立大学ウォルター P. ルーサー図書館)
AZTの錠剤
AZT錠剤
(出典/"A brief history of AZT" National Museum of American History)

参考文献

当時の主な事件や世相1964年(昭和39年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1965年(昭和40年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1966年(昭和41年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1967年(昭和42年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1968年(昭和43年)の主な出来事

1969年(昭和44年)

5月

15日
海外での出来事/研究・医療関連ロバート・レイフォードの死

米国セントルイスの16歳の少年ロバート・レイフォードが、カポジ肉腫など通常ありえない症状で医師を困惑させ、治療の甲斐もなく市立病院で死亡。

残された彼の検体を1987年に再調査した結果、HIV陽性が判明。米国でのエイズによる最初の死亡者と考えられている。

中西部から出たことがなく、輸血を受けた経験もなかったという彼の死は、エイズの起源研究に大きな波紋を投げかけたが、彼の残されていた検体は、2005年のハリケーン・カトリーナの被害に遭い、失われてしまった。

ロバート・レイフォード
ロバート・レイフォード
(出典:"Robert Rayford : Primera persona registrada con VIH en EE-UU" Conexión Vida)

参考文献

6月

28日
海外での出来事/セクシュアル・マイノリティ関連ストーンウォールの反乱

ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」に酒類販売の無免許営業を取り締まる名目で警官8名が手入れを行い、従業員や一部の客を逮捕したことを発端に、客や周辺のセクシュアル・マイノリティたちが集まり、やがて暴動となった事件。

騒動は6日間続き、参加者も数千人に膨れ上がり、この事件を契機にセクシュアル・マイノリティの権利獲得運動が一気に全米に広がった象徴的な事件。

この時代は、ソドミー法と呼ばれる「自然に反した性行動を禁止」する法律があり、同性愛を取り締まる根拠としていた。同性愛者に酒類を提供することも違法であったため、ほとんどのゲイバーはマフィアが経営していたたため、警察の標的にされていた。

また、この時代には黒人の権利獲得のための公民権運動やベトナム戦争に対する反戦運動から生まれた「ラブ&ピース」を掲げた反権力・反文明のヒッピー・ムーブメントも起こっていた。このような時代背景がベースになっていたと考えられている。

フリーランスの写真家ジョセフ・アンブロジーニが暴動の最初の夜に撮影した唯一の既知の写真
フリーランスの写真家ジョセフ・アンブロジーニが暴動の最初の夜に撮影した唯一の既知の写真(引用:HISTORY)

参考文献

当時の主な事件や世相1969年(昭和44年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1970年(昭和45年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1971年(昭和46年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1972年(昭和47年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1973年(昭和48年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1974年(昭和49年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1975年(昭和50年)の主な出来事

1976年(昭和51年)

4月

24日
海外での出来事/研究・医療関連ノルウェーの船員のクラスター

彼は1969年に亡くなったロバート・レイフォードに次いでHIV/AIDSの最も初期の確認された症例の2例目。

ノルウェーの船員、およびトラック運転手だったArne Vidar Røed(アルネ・ヴィダル・レード)は、身元を隠すためのアナグラムでArvid Darre Noeという名で医学文献で知られている。彼の本名は彼の死後、明らかになった。

レードは15歳で商船の船員となり、カメルーンなどを訪問し、そのときに淋病に感染。

1960年代後半ではヨーロッパの長距離トラック運転手として働いていたが、関節痛、リンパ浮腫、肺感染症に苦しんでいたが、運動制御の困難と認知症を発症し、1976年4月24日に29歳で亡くなった。

彼の妻も同様の症状で12月に亡くなり、3人目の子供である娘は年1月4日に8歳で亡くなっており、米国外でAIDSで死亡したと記録された最初の人だった。

レードの死後、約10年後にオスロ国立病院のスティグ・フローランド博士が検査すると、3人の血液サンプルはすべてHIV陽性だった。

研究により、レードは1961年もしくは1962年にカメルーンで、当時流行していたHIV-1グループOに感染したと考えられている。

参考文献

当時の主な事件や世相1976年(昭和51年)の主な出来事
  • 1976年の邦楽ヒット曲:
    • 1位:泳げたいやきくん
      (子門真人/45.6万枚/年間アルバム1位)
    • 2位:ビューティフル・サンデー(ダニエル・ブーン/190.9万枚)
    • 3位:北の宿から
      (都はるみ/87.7万枚/日本レコード大賞/日本有線大賞)
    • 4位:木綿のハンカチーフ(太田裕美/86.7万枚)
    • 5位:岸壁の母(二葉百合子/77.万枚)
    • 6位:俺たちの旅(中村雅俊/75.7万枚)
    • 7位:あなただけを(あおい輝彦/72.3万枚)
    • 8位:横須賀ストーリー(山口百恵/65.4万枚)
    • 9位:わかって下さい(因幡晃/61.4万枚)
    • 10位:あの日にかえりたい(荒井由実/53.9万枚)
  • 1976年の流行語:
    • 記憶にございません
      (ロッキード事件について衆院予算委員会に第1回証人として小佐野賢治が何度も口にした言葉)
    • ピーナッツ
      (ロッキード事件での100万円相当の賄賂。)
  • 1977年(昭和52年)

    12月

    12日
    海外での出来事/研究・医療関連グレーテ・ラスクの死

    グレーテ・ラスクは、ザイール(現・コンゴ共和国)のデンマーク人医師・外科医。

    1972年にアブモンバジ村に自身の病院を設立し、1975年にキンシャサのデンマーク赤十字病院に移動。

    1977年に原因不明の感染症の症状が現れ、デンマークに帰国、12月12日にエイズ関連ニューモシスチスジロベチ肺炎で死去。

    1981年6月、米国疾病対策センターがAIDS発症を認定。

    ラスクは、アフリカ人以外のMSM(男性とセックスする男性)以外でのAIDS関連死の最初の1人。

    グレーテ・ラスク
    現地で多くの命を救ったグレーテ・ラスク
    (出典/"After hard working days she rested by the beautiful Ebola River")

    参考文献

    当時の主な事件や世相1977年(昭和52年)の主な出来事
    当時の主な事件や世相1978年(昭和53年)の主な出来事
    当時の主な事件や世相1979年(昭和54年)の主な出来事
    当時の主な事件や世相1980年(昭和55年)の主な出来事