HIV/AIDSの歴史
〜1980年

HIVはどこから来たのか?
AIDSはなぜ世界に広がったのか?
なぜ偏見や差別が生まれたのか?
治療法はどんな進歩をしてきたのか?
その発生から現在の状況まで、
当時の大きな出来事と共に
年表にまとめてみました。
項目は随時加筆・編集していきます!
もし記述に間違いなどあれば、
お知らせください!

サイレント・エピデミック

WHO

1970年代のある時点で、世界が知らないうちに、HIVは足場を固めて陰湿な拡散を始め、20世紀をAIDS以前と以後の2つの時代に永遠に分けてしまった。

参考・引用

タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアルマイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。

数百万年〜数十万年前

海外での出来事研究・医療関連アフリカのサルにSIV(サル免疫不全症候群)発生

1981年、突然米国を震撼させ、現在も流行を続けるAIDSの原因ウイルスHIVは、アフリカに生息するサルを自然宿主とするSIV(Simian Immunodeficiency Virus:サル免疫不全症候群)がヒトに種間感染したものとされている。

霊長類レンチウイルスの一種であるSIVは、遺伝情報をRNAで持ち、非常に変異しやすい性質を持っている。

そのため、SIVは自然宿主とは共生関係を築いていたが、他の種の霊長類に感染すると病原性を持つことがあると考えられている。

SIVは、1985年にアラバマ大学のベアトリス・ハーン博士のグループが、マリリンという実験用のチンパンジーの死亡後、その血液と組織を分析し、HIVに似たウイルスを発見、SIVと命名した。

SIV
ヒトAIDSウイルスの起源
(出典/"Origins of HIV and the AIDS Pandemic/NIH")

参考

数百年前

海外での出来事研究・医療関連チンパンジーがSIVに感染

現在のコンゴ共和国、コンゴ民主共和国、カメルーンを中心とするアフリカ中部で、小型のサルを食べたチンパンジーが、SIVに感染

チンパンジーは雑食性で、ときに強い肉食性になるという。そのため、小型のサル(シロエリマンガベイとクチヒゲグエモンまたはモナモンキー)を食べ、この2種類のサルが持つSIVに重感染した結果、組替体を持ち、生殖行為によりチンパンジーのコロニーで広がったと考えられている。

チンパンジー
チンパンジー

参考

19世紀後半〜20世紀初頭

海外での出来事研究・医療関連チンパンジーからヒトへ

1959年頃ベルギー領コンゴ(現・コンゴ民主共和国)で採取されていたウイルスと、1960年頃キンシャサ大で採取され保存されていたウイルスの相違性を比較すると88%の一致が見られた。

研究者たちは、10年以上かけて古いチンパンジーの糞の山を掘り、発見したSIVを、1959年にコンゴの男性から採取した最古のHIVサンプルと遺伝子的に比較。

ヒトの生体試料に保存されているHIV-1の配列とウイルスの突然変異率の推定値から、チンパンジーからヒトへのジャンプは、赤道アフリカで急速に都市化と植民地化が進んだ19世紀後半から20世紀前半に起こったと考えられる。

いくつかの分子年代測定研究は、HIV-1が20世紀初頭、おそらく1915年〜41年の間にその最新共通祖先を持ったことを示唆している。

2008年に発表した研究では、共通祖先は1873年〜1933年にあるとし、中央推定値は1902〜21年に変動がある。また特定のHIV株の分子時計から、最初の感染時期を1915〜1931年頃と推定する説もある。

現地民のハンターが感染したチンパンジーを捕獲、解体などする際に、噛まれるなどしてできた傷口などから血液に接触して感染が起こったと考えられている。

当時、中部アフリカでは風土病として「痩せ病(Slim Disies)」と呼ばれる症候群の報告もあった。

1966年頃のキンシャサ
1966年頃のキンシャサ
(出典/"'Perfect storm' turned HIV from local to global killer" NewScientist)

参考

1920年(大正9年)〜

海外での出来事研究・医療関連当時の主な事件や世相アフリカで拡散

1931年〜1933年にフランス人レオン・パルがコンゴの鉄道建設中に死亡した黒人労働者を解剖。50人の死亡者のうち26人にエイズ様の症状を観察。

当時ベルギーの植民地であったレオポルドビル(現:キンシャサ)の急速な都市化による都市への大規模な人口流入が起こり、売春により労働者間に広がったとみられる。

さらにそこへ西洋医学が入り、梅毒などの性感染症や熱帯病風土病を治療する注射針も、感染が広がった原因と考えられている。当時は、血液感染の概念はなく、注射針はアルコール消毒のみで使い回されていた。

また、キンシャサから港に伸びる鉄道によって人の移動が活発化し、そこからコンゴ民主共和国全土、近隣の植民地諸国へ広がったようだ。

キンシャサから拡散の様子
カメルーンからキンシャサへ
(出典/"'Perfect storm' turned HIV from local to global killer" NewScientist)

参考

1926年(大正15年・昭和元年)

日本での出来事薬害エイズ関連名古屋に日本最初の供血者協会誕生

日本での売血者斡旋の始まり。

参考・引用

1930年(昭和5年)

11月14日

日本での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連人物当時の主な事件や出来事濱口雄幸首相狙撃事件

輸血により助かり、以後輸血が普及するきっかけとなる。

濱口雄幸は、立憲民政党総裁として、張作霖爆殺事件の責で総辞職した田中義一内閣の後に内閣総理大臣に就任。金解禁や緊縮政策を断行し、野党・立憲政友会の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。

濱口内閣の政策は激しい攻撃に晒され、1930年(昭和5年)11月14日、陸軍の演習視察と昭和天皇の行幸への付き添いのために訪れた東京駅で、愛国社社員の右翼活動家の青年、佐郷屋留雄に至近距離から腹部を銃撃された。

濱口は、かけつけた東京帝国大学外科学主任教授の塩田広重の手によって輸血が施され、様態の安定に伴い、東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、同病院にて腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた。

明治生まれでは初の内閣総理大臣。日本の首相で初めて当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもあり、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。

濱口雄幸氏
濱口雄幸氏
(引用:「濱口雄幸」WikipediA
東京駅ホームで銃撃され運ばれる濱口
東京駅ホームで銃撃され運ばれる濱口
(引用:「濱口雄幸」WikipediA

参考・引用

1930年(昭和5年)代〜
1950年(昭和25年)代

海外での出来事研究・医療関連当時の主な事件や世相アフリカから世界へ拡散

Wikipediaから引用

小規模なニューモシスチス肺炎の流行は、1930年代から1950年代にかけて北ヨーロッパと中央ヨーロッパ諸国で単発的に発生し、早産した子供たちに影響を与えました。

感染したガラスの注射器や針の使いまわしが原因で流行が広がった可能性が高い。

特に1950年代に流行が最盛期にあったため、栄養失調は原因とはみなされなかった。当時、戦争で引き裂かれたヨーロッパはすでに荒廃から回復していた。

研究者らは、最も可能性の高い原因は、旧ドイツの植民地であるカメルーンに由来するHIV(またはHIVの軽度バージョン)と密接に関連するレトロウイルスがヨーロッパに持ち込まれたと述べています。

流行は1939年にダンツィヒ自由都市で始まり、その後、スイスやオランダのような1940年代と1950年代に近隣諸国に広がった。

参考

1931年(昭和6年)

日本での出来事薬害エイズ関連東京に売血者斡旋の日本輸血普及会設立

参考・引用

1935年(昭和10年)

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連血漿を凍結し乾燥粉末化技術が開発される

1935年、凍結用の大型チャンバーと水分除去用の真空ポンプを備えた初の商業用凍結乾燥機が登場した。米国コーネル大学のフロズドルフとグリーブスは、稼働率の高い凍結乾燥設備と装置を開発し、大量生産を可能にした。

最初の大規模な凍結乾燥第二次世界大戦中に始まった。戦闘で負傷した兵士を治療するのに十分な血漿をヨーロッパに運ぶには、大規模な冷蔵が必要だったが、資源不足のために血漿が凍結状態を保てず、一部は腐敗してしまい、野戦病院では生死を分ける事態となった。血漿を常温で出荷できるようにするため、アメリカ陸軍は血漿の凍結乾燥を開始した。

第二次世界大戦は、製薬産業への凍結乾燥の応用を促進した。戦後、この新技術はワクチンや医薬品産業へと拡大した。現在に至るまで、凍結乾燥技術は製薬業界で広く応用されている。

参考・引用

1948年(昭和23年)

2月27日

日本での出来事薬害エイズ関連東大病院小石川分院で輸血による梅毒感染事件発生

東京大学医学部付属病院小石川分院婦人科で、子宮筋腫の手術を受けた女性に、術後の体力補強のための輸血が行われ、この輸血によって女性は梅毒に感染し、損害賠償、業務上過失傷害の告訴にまで発展し、社会問題となった。

この事件では、供血者に対する担当医の問診義務が問題となり、裁判では一審、二審ともに、医師に問診を行わなった過失を認めている。

1961年(昭和36年)の最高裁判決では、「いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照し、危険防止のために実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのは、やむを得ないところといわざるを得ない」と述べ、医療過誤訴訟における過失とは何かという問題について現在でも先例的価値をもっている判例となっている。

当時の日本の輸血は諸外国に比べ、大きく遅れており、終戦直後での輸血対策は、昔ながらの注射器で採血した血液をそのまま輸血するという「枕元輸血」が行われていた。

事態を重く見た連合軍最高司令官総司令部(GHQ)は、厚生省と東京都に輸血対策を確立するように指示し、血液銀行を設置して安全な保存血液の供給を促した。米国赤十字社からは、日本赤十字社が中心となって血液事業を行うならば、必要な機械、器具、器材などを援助するという申し出があった。

1949年(昭和24年)5月16日、厚生省、東京都、日赤の代表および学識経験者による、輸血問題予備懇談会が開催され、そこで決定された方針から、日赤に輸血対策委員会が設置された。

1950年(昭和25年)6月14日に開催された第3回輸血対策委員会では、施設、予算措置、血液の有償無償問題および供血者の募集方法などが検討された。策定された実施計画の中で、血液の有償無償問題については「血液の取り扱いは無償を前提として発足すること」とされ、無償の採血と血液供給が構想された。

無償供血を前提としたのは、少しでも血清肝炎の可能性が低い血液を提供すると判断される供血者から血液を収集するためである。

参考・引用

1952年(昭和27年)

4月10日

日本での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連日本初の血液銀行開業最新記事

1948年(昭和23年)の東大病院での輸血による梅毒感染事故を受け、日本赤十字社は米国赤十字社の指導と援助を受け、保存血液製造に着手し、日本初の血液銀行(現赤十字血液センター)の日本赤十字社東京血液銀行業務所が開業した。

参考・引用

7月26日

海外での出来事研究・医療関連人物パンデミックの前兆、リチャード・エドウィン・グレイブスJr.

ソロモン諸島に駐留していた第二次大戦の退役軍人、28歳のリチャード・エドウィン・グレイブスJr.が、テネシー州メンフィスでニューモシスチス肺炎とサイトメガロウイルス感染症で死亡。後に一部の著者はエイズ診断を示唆する臨床経過に充分な日和見感染症を構成すると示唆。

参考・引用

1959年(昭和34年)

海外での出来事研究・医療関連後にAIDSと確認された最も古い症例

1959年、コンゴで死亡した人が、保存されていた血液サンプルからHIVに感染していることが確認され、ヒトで最初のHIV感染者となった。

この研究の著者は、「300塩基対以上のHIV-1断片を増幅する試みは失敗した」と書き、彼の試料から完全なウイルスの配列は得られなかった。

引用

参考

6月28日

海外での出来事研究・医療関連人物NYでジャマイカ系アメリカ人船員がニューモシスチス肺炎で死亡

ニューヨーク市、アルドゥイン・アントニオという49歳のジャマイカ系アメリカ人の海運店員が、エイズと密接に関連する病気であるニューモシスチス・カリニ肺炎で死亡。

男性の遺体の死後検査を行ったゴードン・ヘニガー医師は、「成人における未関連肺炎性カニスチス病の最初の報告例」が非常に珍しいことを発見し、彼は後の研究のためにアルドゥインの肺を保存した。

当初、ヘニガー医師は、彼がネバダに行った経験の有無を知りたがっていたが、原爆実験の調査に参加して影響を受けたのかもしれないと考えていたようだ。

この事件は当時2つの医学雑誌に掲載され、ヘニガー医師はアルドゥインがおそらくエイズにかかったと信じていると多くの出版物で語っている。

引用
参考・引用

8月31日

海外での出来事研究・医療関連人物デヴィッド・カー

英国マンチェスターの王立診療所で亡くなった25歳の船員の男性、デヴィッド・カーはAIDSで死亡した最初の人物だと考えられていた。

彼は西アフリカで過ごした後、英国で急激に健康が悪化し、8月31日にカリニ肺炎で亡くなった。彼の主治医は彼のサンプルを残し、この異常な症例を医学誌「ランセット」の1960年10月29日号で紹介し、1990年にはAIDSであったと確認された。

このことにより、カー氏の症例が最も早く記録されたAIDSの症例となっていたが、実際にはHIV陽性ではなかったと、1995年にニューヨークの医療チームの調査によって覆された。元の研究者は彼のサンプルは汚染されていたと認めた。

デヴィッド・カーのAIDS症例を否定する記事
デヴィッド・カーのAIDS症例を否定する記事
(出典/The New York Times)
参考・引用
当時の主な事件や世相1959年(昭和34年)の主な出来事

1960年(昭和35年)〜

海外での出来事研究・医療関連当時の主な事件や世相アフリカからハイチへ

1960年6月30日、ベルギー領だったコンゴが独立し、コンゴ民主共和国となった。これを機にベルギー人が去り、医師や弁護士として働くためにコンゴへやってきたフランス語を話すハイチ人と入れ替わった。

コンゴ民主共和国軍の参謀総長だったモブツ・セセ・ココは1960年の9月のコンゴ動乱で実験を握り、1965年11月24日にクーデターを起こし、革命人民運動(MPR)の一党独裁体制を確立。

モブツ政権は移民を排除したため、ハイチ人はHIVとともに故国に戻ったと言われている。

また、米国へは1969年頃に持ち込まれたという説が多い。

アフリカからハイチ、アメリカへ
ハイチから米国へ
(出典/"America’s HIV outbreak started in this city, 10 years before anyone noticed" from PBS NEWS HOUR)

参考

当時の主な事件や世相1960年(昭和34年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1961年(昭和35年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1962年(昭和36年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1963年(昭和37年)の主な出来事

1964年(昭和39年)

海外での出来事研究・医療関連がんの治療薬としてAZT(アジドチミジン)を合成

米国デトロイトのウェイン州立大学のジェローム・ホーウィッツ博士は、がんの治療薬としてAZT(アジドチミジン)を合成したが、残念なことにがんの治療には効果を見いだせなかった。

しかし、20年後、最初のAIDSの治療薬として脚光を浴びることになる。

Jerome P. Horwitz博士
Jerome P. Horwitz博士
(引用:The New York times/ウェイン州立大学ウォルター P. ルーサー図書館)
AZTの錠剤
AZT錠剤
(出典/"A brief history of AZT" National Museum of American History)

参考・出典

8月21日

日本での出来事国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連「献血の推進について」閣議決定最新記事

1952年(昭和27年)に日本赤十字社は血液銀行をスタートさせたものの、前後して生まれた民間の商業血液銀行が、当時の不況に苦しんでいた人から血液を買っていたため、日赤での献血者は極端に減ってしまっていた。

売血する人の多くは職がなく、血液を売って生活費にあてていた。働くより手っ取り早い収入源として習慣になり、1ヶ月に70回以上も売血を行う人まで現れた。、

健康を害するほど売血を繰り返し、赤血球が回復しないうちに売血された血液は、輸血しても効果が少ないばかりか、輸血後肝炎などの副作用を招きがちで、大きな社会問題になっていった。

また、自分の生命の源とも言える血液を売買すること自体、人身売買に繋がるとの批判も招いた。

そこで高校生や大学生を中心とした売(買)血追放運動が各地で起こり、国会でも取り上げられるようになった。

そこで政府は、「献血の推進について」を閣議決定することとなった。

政府は、血液事業の現状にかんがみ、可及的速やかに保存血液を献血により確保する体制を確立するため、国及び地方公共団体による献血思想の普及と献血の組織化を図るとともに、日本赤十字社または地方公共団体による献血受入れ体制の整備を推進するものとする。

以降、全国各地に赤十字血液センターが開設され、献血の受け入れ体制が急速に充実していくこととなり、1968年(昭和43年)には民間血液銀行の買血による保存血液は消滅した。

参考・出典
当時の主な事件や世相1964年(昭和39年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1965年(昭和40年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1966年(昭和41年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1967年(昭和42年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1968年(昭和43年)の主な出来事

1969年(昭和44年)

5月15日

海外での出来事研究・医療関連人物アメリカでエイズによる最初の死亡者、ロバート・レイフォード

米国ミズーリ州セントルイスの16歳の少年ロバート・レイフォードが、カポジ肉腫など通常ありえない症状で医師を困惑させ、治療の甲斐もなく市立病院で死亡。

残された彼の検体を1987年に再調査した結果、HIV陽性が判明。米国でのエイズによる最初の死亡者と考えられている。

当時、医師はHIVの存在を知らず、彼の謎の病気を診断することができなかった。白血球の数が少なく、エイズの代表的な病気であるカポジ肉腫の紫色の病変があったとされる。

彼は中西部から出たことがなく、輸血を受けた経験もなかったという彼の死は、エイズの起源研究に大きな波紋を投げかけたが、彼の残されていた検体は、2005年のハリケーン・カトリーナの被害に遭い、失われてしまった。

ロバート・レイフォード
ロバート・レイフォード
(出典:"Robert Rayford : Primera persona registrada con VIH en EE-UU" Conexión Vida)
参考・引用

6月

27日
海外での出来事市民運動など民間の動きセクシュアルマイノリティ関連人物当時の主な事件や出来事ハリウッドスターのジュディ・ガーランドの葬儀がニューヨークで行われる

オズの魔法使い」や「スタア誕生」など黄金時代のハリウッド・ミュージカルを代表する大スター、ジュディー・ガーランドが、6月22日に薬物の過剰摂取のため、47歳で亡くなった。葬儀は27日にニューヨークで行われ、2万人を超える人々が弔問に集まった。日付けをまたいだその数時間後にストーンウォールの反乱が発生した。

ジュディ・ガーランドがゲイ・アイコンとしても絶大な人気を誇っていたことから、ストーンウォールの反乱は、ジュディの死が引き金になったという伝説が生まれた。ジュディの弔問の後にストーンウォールに集まったセクシュアルマイノリティが、踏み込んだ警官から侮辱され反撃したというものだ。

しかし、多くの記録や証言からこの説は完全に否定され、事件を矮小化していると非難されている。この反乱は、あくまでもセクシュアルマイノリティへの暴力的で理不尽な差別や偏見に対して立ち上がったのであり、愛するスターを侮辱されたことで起こったのではないということだ。

また、LGBTQ+のシンボルのレインボーフラッグも、この「虹の彼方に」が由来だとする説もあるが、残念ながらこの旗をデザインしたギルバート・ベイカーの自伝「Rainbow Warrior: My Life in Color」には、「虹の彼方に」との関連性を示す記述は一切無いという。

ジュディーは子役時代から類まれな才能を発揮し、トップスターとして圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了し続けた反面、ドル箱スターであり続けるためにスタジオからは過剰な睡眠薬や痩せ薬と称する覚醒剤などで薬物浸けになり、薬物中毒、アルコール依存症、精神障害、自殺未遂などを起こすと、スタジオから簡単に切り捨てられるなど不当な扱いを受けていた。

ジュディーが映画やTV、ステージで表現する華やかな自分と、過酷な現実のとの埋めようのないギャップに、もがき苦しみながらも何度も再起を試みる彼女の人生に、クローゼットの中に閉じこもるしか生きる道が無かった当時のセクシュアルマイノリティたちは共感したのだった。

幼い頃から何度もテレビで放映されたジュディの代表作の映画「オズの魔法使い(The Wizard of OZ)」見て育ったセクシュアルマイノリティたちは、劇中で歌われる名曲「虹の彼方に(Over te Rainbow)」に強く共感し、自分たちが生きやすい世界を夢見て、演じた少女ドロシーにちなみ自身のことを「ドロシーの友達(Frends of Dorothy:FOD)」とも呼んでいた。

ヴィレッジ・ヴォイス誌はストーンウォールの反乱に対して、あからさまに同性愛嫌悪の報道をし、7月10日付けの「Too Much My Dear」という記事では、盛大なジュディーの葬儀とストーンウォールでの出来事を嘲笑的に結びつけて記事にしている。ほんの数時間の間を置いて連続して至近距離で起こった2つの出来事を結びつけることは、ゴシップ記事としてはとても魅力的だったようだ。

1939年の映画「オズの魔法使い(The Wizard Of Oz)」より『虹の彼方に(Over The Rainboe)』ジュディー・ガーランド
参考・引用
28日
海外での出来事セクシュアルマイノリティ関連ストーンウォールの反乱特に大事な記事

ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」に酒類販売の無免許営業を取り締まる名目で警官8名が手入れを行い、従業員や一部の客を逮捕したことを発端に、客や周辺のセクシュアルマイノリティたちが集まり、やがて暴動となった事件。

騒動は6日間続き、参加者も数千人に膨れ上がり、この事件を契機にセクシュアルマイノリティの権利獲得運動が一気に全米に広がった象徴的な事件。

この時代は、ソドミー法と呼ばれる「自然に反した性行動を禁止」する法律があり、同性愛を取り締まる根拠としていた。同性愛者に酒類を提供することも違法であったため、ほとんどのゲイバーはマフィアが経営し、警察の標的にされていた。

また、この時代には黒人の権利獲得のための公民権運動やベトナム戦争に対する反戦運動から生まれた「ラブ&ピース」を掲げた反権力・反文明のヒッピー・ムーブメントも起こっていた。このような時代背景がベースになっていたと考えられている。

フリーランスの写真家ジョセフ・アンブロジーニが暴動の最初の夜に撮影した唯一の既知の写真
フリーランスの写真家ジョセフ・アンブロジーニが暴動の最初の夜に撮影した唯一の既知の写真(引用:HISTORY)
参考
当時の主な事件や世相1969年(昭和44年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1970年(昭和45年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1971年(昭和46年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1972年(昭和47年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1973年(昭和48年)の主な出来事
当時の主な事件や世相1974年(昭和49年)の主な出来事

1975年(昭和50年)

海外での出来事研究・医療関連キンシャサでカポジ肉腫が倍増と報告

キンシャサのマモ・イエモ病院の医師が、後にHIVに起因することが判明するカポジ肉腫の症例が倍増したと報告する。

当時は診断されなかったが、1970年代後半まで、このような症例はキンシャサ市内や近隣のブラザビルで見られることはなく、HIVがこの地域で流行し始めたばかりであることを示唆している。

その後数年間は、カポジ肉腫、衰弱、クリプトコッカス髄膜炎が増加。

妊婦の血液サンプルのレトロスペクティブHIV検査から、妊婦のHIV感染率が1970年代初めの0.2%から1980年までに3%に上昇したことが明らかになった。

参考

当時の主な事件や世相1975年(昭和50年)の主な出来事

1976年(昭和51年)

4月24日

海外での出来事研究・医療関連人物ノルウェーの船員のクラスター

彼は1969年に亡くなったロバート・レイフォードに次いでHIV/AIDSの最も初期の確認された症例の2例目。

ノルウェーの船員、およびトラック運転手だったArne Vidar Røed(アルネ・ヴィダル・レード)は、身元を隠すためのアナグラムでArvid Darre Noeという名で医学文献で知られている。彼の本名は彼の死後、明らかになった。

レードは15歳で商船の船員となり、カメルーンなどを訪問し、そのときに淋病に感染。

1960年代後半ではヨーロッパの長距離トラック運転手として働いていたが、関節痛、リンパ浮腫、肺感染症に苦しんでいたが、運動制御の困難と認知症を発症し、1976年4月24日に29歳で亡くなった。

彼の妻も同様の症状で12月に亡くなり、3人目の子供である娘は年1月4日に8歳で亡くなっており、米国外でAIDSで死亡したと記録された最初の人だった。

レードの死後、約10年後にオスロ国立病院のスティグ・フローランド博士が検査すると、3人の血液サンプルはすべてHIV陽性だった。

研究により、レードは1961年もしくは1962年にカメルーンで、当時流行していたHIV-1グループOに感染したと考えられている。

参考・引用
当時の主な事件や世相1976年(昭和51年)の主な出来事
  • 1976年の邦楽ヒット曲:
    • 1位:泳げたいやきくん
      (子門真人/45.6万枚/年間アルバム1位)
    • 2位:ビューティフル・サンデー(ダニエル・ブーン/190.9万枚)
    • 3位:北の宿から
      (都はるみ/87.7万枚/日本レコード大賞/日本有線大賞)
    • 4位:木綿のハンカチーフ(太田裕美/86.7万枚)
    • 5位:岸壁の母(二葉百合子/77.万枚)
    • 6位:俺たちの旅(中村雅俊/75.7万枚)
    • 7位:あなただけを(あおい輝彦/72.3万枚)
    • 8位:横須賀ストーリー(山口百恵/65.4万枚)
    • 9位:わかって下さい(因幡晃/61.4万枚)
    • 10位:あの日にかえりたい(荒井由実/53.9万枚)
  • 1976年の流行語:
    • 記憶にございません
      (ロッキード事件について衆院予算委員会に第1回証人として小佐野賢治が何度も口にした言葉)
    • ピーナッツ
      (ロッキード事件での100万円相当の賄賂。)
  • 1977年(昭和52年)

    12月12日

    海外での出来事研究・医療関連人物グレーテ・ラスクの死

    グレーテ・ラスクは、ザイール(現・コンゴ共和国)のデンマーク人医師・外科医。

    1972年にアブモンバジ村に自身の病院を設立し、1975年にキンシャサのデンマーク赤十字病院に移動。

    1977年に原因不明の感染症の症状が現れ、デンマークに帰国、12月12日にエイズ関連ニューモシスチスジロベチ肺炎で死去。

    1981年6月、疾病管理予防センター(CDC:Centers for Disease Control)がAIDS発症を認定。

    ラスクは、アフリカ人以外のMSM(男性とセックスする男性)以外でのAIDS関連死の最初の1人。

    グレーテ・ラスク
    現地で多くの命を救ったグレーテ・ラスク
    (出典/"After hard working days she rested by the beautiful Ebola River")
    参考・引用
    当時の主な事件や世相1977年(昭和52年)の主な出来事

    1978年(昭和53年)

    11月27日

    海外での出来事セクシュアルマイノリティ関連人物ハーヴェイ・ミルク暗殺事件特に大事な記事追加・再編集記事

    Wikipediaから引用

    1977年、カリフォルニア州サンフランシスコ市の市会議員に当選し、同国で初めて選挙で選ばれたゲイを公表していた公職者となる。

    しかし、議員就任1年も経たない1978年11月27日、同僚議員のダン・ホワイトにより、ジョージ・マスコーニ市長とともに同市庁舎内で射殺された。

    この事件の裁判で、ホワイトはわずか7年の禁固刑を宣告され、この評決に怒った同性愛者らが、サンフランシスコで広範囲にわたる暴動を起こした。

    1988年には、彼の生涯を追ったドキュメンタリー映画「ハーヴェイ・ミルク」が公開され、第57回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞。2008年にはショーン・ペンがミルクを演じる「ミルク」が公開され、第81回アカデミー賞に8部門でノミネートされ、ショーン・ペンは2度目の主演男優賞を獲得した。

    1999年には「タイム誌が選ぶ20世紀の100人の英雄」に選出されている。

    引用
    参考・引用
    当時の主な事件や世相1978年(昭和53年)の主な出来事
    当時の主な事件や世相1979年(昭和54年)の主な出来事

    1980年

    海外での出来事研究・医療関連のアイコンブルンジでの流行

    東アフリカの内陸部にあるブルンジの出血熱調査で採取された658の血液検体をレトロスペクティブに分析したところ、1980年までにHIVが流行レベルに達していたことが判明。

    ブルンジの出血熱調査で採取された658の血液検体を首都ブジュンブラでは、このときすでにHIVの有病率は7.6%であった。それ以降、1980年代にかけて、ブルンジでは、現在AIDSに起因すると考えられている一般的な日和見感染症が増加していった。

    参考

    4月24日

    海外での出来事研究・医療関連のアイコン人物AIDS流行の最初のアメリカ人

    CDC(米国疾病管理予防センター)は、免疫力の低下によって起こる極めて稀なカポジ肉腫で苦しんでいる、サンフランシスコ在住のゲイ男性ケン・ホーンについての報告を受け取った。

    治療の甲斐もなく、彼は翌年の1981年11月30日に亡くなった。CDCは、彼がAIDS流行の最初のアメリカ人として、さかのぼって特定した。

    当時、ロサンゼルスやニューヨークで滅多に売れることのないカリニ肺炎の特効薬ペンタミジンの売上が急増していたが、AIDSとの関連性にはまだ誰も気付いていなかった。

    参考・引用

    12月24日

    海外での出来事研究・医療関連のアイコン人物ブルックリンの学校教師

    1979年の秋、ニューヨークのブルックリンで学校の教師をしている男性が硬化したリンパ節と奇妙な紫色の発疹について病院へ相談した。

    検査後、彼の発疹はカポジ肉腫と診断。このガンは主に地中海系の高齢男性に見られる珍しいものだった。

    彼はまた、あまり症例のない肺感染症も発症し、1980年のクリスマスイブに亡くなった。後に彼はAIDSで亡くなった4番目の米国市民とされた。

    参考・引用
    当時の主な事件や世相1980年(昭和55年)の主な出来事