HIV/AIDSの歴史
1981年
世界的な流行の始まり
最初は世界のいくつかの都市のゲイ・コミュニティに関連した症状であったものが、あっという間に世界的な流行病になり、すべての人に影響を与えることとなった。
恐怖を煽り、今日まで続くHIV/AIDSに対する偏見と差別の始まりだった。
1981年
5月18日

LGBTQ新聞ニューヨーク・ネイティブ紙が奇妙な病気の流行の噂を報道
当時のアメリカのゲイ・コミュニティで最も影響力があったゲイ向けの新聞ニューヨーク・ネイティブ紙が、後にAIDSとして知られるようになる病気に関する最初の新聞報道を行った。
ニューヨークの医師で同紙のメディカルライターでもあったローレンス・マスは、ニューヨークの集中治療室に免疫力が著しく低下した非常に稀なタイプの肺炎に侵されたゲイ男性が多数入院しているという噂を聞いた。
彼が米国疾病対策センター(CDC)へ問い合わせたところ、噂は根拠がないと言われ、「Disease Rumors Largely Unfounded(病気の噂はほとんど根拠がない)」という記事を書いた。

(引用/"First report about what became known as AIDS published in New York Native newspaper 40 years ago" Retro Newser)
病気の噂はほとんど根拠がない
先週、ニューヨークのゲイ・コミュニティを新奇な病気が襲ったという噂があった。以下はその事実である。ニューヨーク市保健局のスティーブ・フィリップス医師は、この噂はほとんど根拠がないと説明した。毎年、ニューヨーク市周辺では、原虫のような生物、ニューモシスチス・カリニへの感染が約12〜24件報告されています。この菌は決して新奇なものではなく、むしろどこにでもいるものだ。しかし、私たちのほとんどは自然あるいは容易に獲得できる免疫を持っている。
翌月、米国疾病対策センター(CDC)は後にAIDSとなる症例の世界初の臨床報告を発表したが、ニューヨーク・ネイティブ紙はそのほぼ3週間前にこの事例を取り上げていた。
参考・引用
- "AIDS Crisis Timeline" HISTORY.COM
- 「HIV/AIDS年表」立命館大学生存学研究所・三浦 藍
- "Timeline of HIV/AIDS" Wikipedia
- "New York Native" Wikipedia
- "Skepticism Of Science In A Pandemic Isn't New. It Helped Fuel The AIDS Crisis" npr
- "First report about what became known as AIDS published in New York Native newspaper 40 years ago" Retro Newser
6月5日

米国疾病対策センター(CDC)がロサンゼルスのゲイ男性に稀な肺炎5例を発表
米国疾病対策センター(CDC)は、「疾病率および死亡率週間報告(MMWR/Morbidity and Mortality Weekly Report)」で、ロサンゼルスの若く健康だったゲイ男性5人が、稀な肺感染症のニューモシスチス・カリニ肺炎にかかったと報告。
ロサンゼルスの免疫学者マイケル・ゴットリーブ博士は、1980年11月にカンジダ症やニューモシスチス・カリニ肺炎など異常な感染症を持つ最初の患者に遭遇、免疫系の同僚の検査によって免疫システムが機能していないことが判明。
さらに1981年2月にもニューモシスチス・カリニ肺炎の患者を相次いで2名診ており、患者のライフスタイルからゲイ男性ということが判明したが、その関係性は判断できなかった。
4人目の患者は1981年4月に、その後5人目も発見し、CDCのウェイン・シャンデラ博士の協力により「疾病率および死亡率週間報告(MMWR)」に報告書を提出したが、この報告が発表されるまでに2名が亡くなり、3名は直後に亡くなっていた。
彼らは入院する前に1ヶ月間の発熱とインフルエンザの症状の既往症があり、5人とも性的に活発な同性愛者であり、複数のパートナーを持っていた。
ゴッドリーブ博士の報告書は「5名の患者全員が同性愛者であったことは、性的接触によって感染した側面と、ニューモシスチス・カリニ肺炎との関連を示唆している」と述べている。
AIDSの散発的な症例は1970年以前に記録されていたが、流行は1970年代半ばから後半にかけて始まったことを示唆している。
実はこの報告以前、めったに出ないカリニ肺炎の特効薬ペンタミジンの販売額が1979年からロサンゼルスやニューヨークで伸びていることが話題になっていた。
1980年までに、HIVは5大陸(南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア)に広がっている可能があり、すでに最大30万人が感染している可能性があった。
この報告は、後にAIDS(後天性免疫不全症候群)として流行する最初の公式報告となった。

(引用:"HIV and AIDS Timeline" CDC(Centers for Disease Control and Prevention))
参考
- "HIV and AIDS Timeline" CDC(Centers for Disease Control and Prevention)
- "A Timeline of HIV and AIDS" HIV.gov
- PEPFAR HIV Historical Timeline
- "AIDS Crisis Timeline" HISTORY.COM
- "40 Years of AIDS : A Timeline of the Epidemic" University if California San Francisco
- "HIV/AIDS Timeline" NEW YORK CITY AIDS MEMORIAL
- "Timeline of HIV/AIDS" Wikipedia
- "AIDS – from gay cancer to global pandemic" QLIFE MEDIA
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- "Legacy: A Timeline of HIV/AIDS" ONCRATING
- 「HIV/AIDSーチンパンジーから入った20世紀の病」加藤茂孝
- 「HIV/AIDS年表」立命館大学生存学研究所・三浦 藍
- "June 5, 1981. Pneumocystis Pneumonia. Los Angeles." DISCOVER MAGAZINE
- "Timeline(1981−1988)" HIH(National Institutes of Health)

ニューヨークとカリフォルニアのゲイ男性にカポジ肉腫のクラスター発生
米国疾病対策予防センター(CDC)の「羅漢率と死亡率週報」(MMWR)の発表当日、ニューヨークの皮膚科医アルビン・リードマン・キーン博士が、ニューヨークとカリフォルニアのゲイ男性に、稀で異常に攻撃的な癌、カポジ肉腫のクラスターが発生していると米国疾病対策予防センター(CDC)に報告
キーン博士はニューヨーク誌のインタビューで「1981年2月に、皮膚にいつくかの斑点がある以外、健康な若い男性を診た。そのような症状は診たことがなかったので生検組織診断を行うと、明らかにカポジ肉腫だった。
その1週間後、別の医師が、同じく30代後半のゲイ男性で、播種性骨内カポジ肉腫の別の患者を送り込んで来きた。」と語っている。
参考・引用

最初の一般報道(ロサンゼルス・タイムズ)
「羅漢率と死亡率週報」(MMWR)の発表当日、ロサンゼルス・タイムズ紙は「Outbreakes of Pneumonia Among Gay Males Studied(ゲイ男性における肺炎の発生状況を調査)」という記事を掲載。新興疾患について報道する最初の全国紙となった。

(引用:"The Dawn of a Plague: the First Publications of HIV/AIDS" medium.com)
ゲイ男性における肺炎の発生状況を調査
ロサンゼルスを始めとする全米の都市で、男性同性愛者の間で発生した謎の肺炎について、研究者たちが調査している。
アトランタの米国疾病対策予防センター(CDC)が本日発表する報告書によれば、最初の5件はすべて20代か30代の同性愛者の男性で、通常は癌患者しか罹らない寄生虫による肺炎に罹患したとのことである。
このほか、サンフランシスコで6件、ニューヨーク、トロント、フロリダで3件が調査中とのことである。
CDCの疫学者であるウェイン・シャンデラ博士(ロサンゼルス)によれば、これまでのところ、なぜすべての患者が男性同性愛者であるのか、研究者は説明できないとのことである。
この肺炎で1名の患者が死亡した。
「我々が言えることは、この肺炎はゲイのライフスタイルと関係があるように見えるということです。」とシャンデラ氏は言う。
通常、米国で発生する肺炎のほとんどは細菌やウイルスが原因であるが、今回のゲイ男性の集団感染は、細菌でもウイルスでもなく、ニューモシスティック・カレニーという原虫が原因である。
この菌は、抗がん剤や移植臓器の拒絶反応を防ぐための薬剤によって、感染に対抗する能力が低下したがん患者や移植患者の死因となることが多い。
参考・引用
6月8日

米国疾病対策予防センター(CDC)はカポジの肉腫と日和見感染症に関するタスクフォースを設立
「羅漢率と死亡率週報」(MMWR)の報告は、ロサンゼルス・タイムズ紙、サンフランシスコ・クロニクル紙、アソシエイテッド・プレス紙などの記事となり、全国のゲイ・コミュニティと医療従事者の注目を集め、米国疾病対策予防センター(CDC)には、数日の間に全国からゲイ男性の間での日和見感染症の同様の症例報告が殺到した。
同時に、多くの懸念に応えるため、危険因子を特定し、まだ名前もない症候群の症例定義を開発するため、米国疾病対策予防センター(CDC)はカポジ肉腫と日和見感染症に関するタスクフォースを設立。
このタスクフォースには、約30人の疾病情報サービスのスタッフが参加。
参考・引用
- "A Timeline of HIV and AIDS" HIV.gov
- “HIV and AIDS Timeline” CDC
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- “40 Years of AIDS : A Timeline of the Epidemic” University if California San Francisco
6月16日


患者D
ニューヨーク市出身の35歳の白人ゲイ男性が、国立衛生研究所(NIH)の臨床センターに入院。彼はプライバシー保護の観点から「患者D」と呼ばれた。
彼は1981年2月までは健康だったが、疲労と脱力感を感じはじめ、その後、体重減少と発熱が続いき、ニューモシスチス・カリニ肺炎、リンパ球減少症、サイトメガロウイルス網膜炎、単純ヘルペス、カンジダ食道炎、肺・骨髄・食道の菌巣菌類結核などを患い、10月28日に亡くなった。
彼を最初に診察した国立衛生研究所(NIH)のウォルドマン医師は、1990年のNIHのインタビューで次のように答えている。
「私達が患者に観察した症状は、重度のアレルギー性ホジキン病患者、または乳幼児の重度複合免疫不全で見られる深刻な免疫不全の症状であり、患者は効果的な抗体免疫反応ができなかった。
医療チームは患者の症状の原因を特定するために、考えうるすべての検査を行ったが無駄だった。
私達は何が起こっているのか理解しようと、手探りだった。
患者は1981年10月28日に多系統の関与で低血圧と呼吸不全で亡くなった。」
彼は国立衛生研究所(NIH)の臨床センターに入院した、最初のAIDS患者だった。
遺体の検死により、大規模な壊死、脳炎など、広い範囲の感染症が明らかになった。
AIDS研究者で初期のHIVの薬物開発者のロバート・ヤーチャン博士は、その瞬間の重大さを次のように語った。
「AIDSは、これまで誰も心配していなかったことが、突然、人類にとって大きな問題になる可能性があることを示した。そしてHIVがAIDSの原因と特定された時、感染が分かっている人に加え、米国の何千人もの人々が知らないうちに感染していることも明らかになった。この時、HIV感染は殆どの場合、致命的だった。」
参考・引用
7月1日

サンフランシスコ総合病院がカポジ肉腫の最初の患者を診察
University if California San Franciscoのポール・ヴォルバーディング医学博士は、サンフランシスコ総合病院の教員初日に、後にエイズに関連するまれな癌であるカポジ肉腫の最初の患者を診察。
ポール・ヴォルバーディング医学博士やマーカス・コナント医学博士たちは、その後、抗レトロウイルス療法の開発研究などHIV/AIDS研究の重要な仕事を担っていくことになる。

(引用:“40 Years of AIDS : A Timeline of the Epidemic” University if California San Francisco)
参考・引用
7月2日

サンフランシスコのLGBTQの週刊新聞ベイ・エリア・レポーター紙が「ゲイ男性の肺炎」を初掲載
記事の中で、息切れを経験している男性は医者に診てもらうよう促している。
「ゲイ男性の肺炎(Gay Men’s Pneumonia)」についての初めての記事。

(引用:Internet Archive)
参考・引用
7月3日

米国疾病対策予防センター(CDC)、「同性愛男性のカポジ肉腫と肺炎、ニューヨークとカリフォルニア」を発表
米国疾病対策予防センター(CDC)は「羅漢率と死亡率週報」(MMWR)で、26人のゲイ男性(白人25人、黒人1人)のカポジ肉腫とニューモシスチス・カリニ肺炎に関する情報を掲載した「同性愛男性のカポジ肉腫と肺炎、ニューヨーク市とカリフォルニア(Kaposi's Sarcoma and Pneumocystis Pneumonia Among Homosexual Men — New York City and California」を発表。
CDCはこの発表で、26歳から51歳までの26人のゲイ男性が過去30日間にカポジ肉腫と診断され、8人が2年以内に死亡したと報告した。

(引用:"The Dawn of a Plague: the First Publications of HIV/AIDS" medium.com)
参考・引用

ニューヨーク・タイムズ紙が「41人の同性愛者に見られる稀な癌」を報道
ニューヨーク・タイムズ紙が「41人の同性愛者に見られる稀な癌(Rare Cancer Seen in 41 Homosexuals)」という記事を掲載。

(引用:"Gay History – July 3, 1981: New York Times Publishes 'Rare Cancer Seen In 41 Homosexuals'” Back2Stonewall)
41人の同性愛者に見られる稀な癌
先週アトランタの連邦疾病管理センターが発表した一連の統計は、同性愛者の男性に恐怖を与え、疫学者やガン研究者に課題を与えた。ニューヨークとカリフォルニアの医師が30ヶ月前から41例の、稀でしばしば急速に致命的な癌、カポジ肉腫を診断したのだ。
過去の全国的な発症率は170万人に1人とされている。
被害者はすべて26歳から51歳の男性である。全員が同性愛者で、ほとんどが異なる相手と複数回、頻繁に性交渉を行っていた。性的快感を高めるためにLSDや亜硝酸アミルなどの薬物を使用していたとする者も少なくない。
また、ヘルペスや肝炎などのウイルス感染症や寄生虫の感染症の治療を受けている者も多かった。
研究者たちは成功する治療法はおろか、この病気の原因もわかっていない。カリフォルニアの被害者の何人かはニューヨークに行ったことがあると言っているが、医師たちは間接的な証拠は伝染を遠ざけるものだと言う。一般に癌は伝染しないと考えられている。研究者たちは、癌と過去の感染症との関連など、いくつかの仮説を検討している。
フリードマン・キエン博士は、知り合い同士の患者はいなかったが、過去のある時点でカポジ肉腫の患者と性的関係を持った者がいた可能性は否定できないと語り、カラン博士は、「感染に関する最良の証拠は、今日まで同性愛者以外や女性の症例が報告されていないことだ」と語り、非同性愛者には明らかに感染の危険はないと断言した。
参考・引用
- "A Timeline of HIV and AIDS" HIV.gov
- “HIV Historical Timeline” PEPFAR
- “HIV/AIDS Timeline” NEW YORK CITY AIDS MEMORIAL
- "AIDS Crisis Timeline" HISTORY.COM
- “Timeline of HIV/AIDS” WikipediA
- "The Dawn of a Plague: the First Publications of HIV/AIDS" medium.com
- "Gay History – July 3, 1981: New York Times Publishes 'Rare Cancer Seen In 41 Homosexuals'” Back2Stonewall
- "Ideas & Trends in Summary; RARE CANCER IN HOMOSEXUALS" The New York Times
7月5日

「ホモ愛好者に凶報」朝日新聞、「ホモだけが、かかるがん」毎日新聞
後にAIDSと確認される病気の、日本での最初の報道とされている。
朝日新聞は記事の中で「ホモの間にカポジ肉腫という極めて珍しいガンが多発」、「ホモ関係に免疫力を弱める要素があるのではとも推定されている」と報道。
参考・引用
8月4日


エリザベス・グレーザーの母子感染
ロサンゼルスの子ども博物館の展示ディレクターのエリザベス・グレーザーは、娘のアリエルが持続的な腹痛に襲われたため、医師の診察を受けさせたが原因が分からなかった。念の為にHIVの検査を受けさせると、陽性反応が出てしまった。
グレイザー一家全員がHIV検査を受けると、母親のエリザベスと1歳半の息子のジェイクもHIV陽性と診断された。
医師は、1981年の出産中に輸血を受けた際にHIVに感染し、授乳によってアリエルも感染したと判断。1984年10月に生まれたジェイクは、胎内でHVに感染していた。
アリエルはロサンゼルスの幼稚園から締め出され、友達も去っていった。
当時は治療法もなかったため、アリエルはAIDSを発症。1987年に初のAIDS治療薬のAZTが認可されるが、対象は成人のみであったため、小児AIDS治療の実現のために活動を行ったが、アリエルは1988年の夏の後半、7歳の誕生日の直後に亡くなった。
その年、エリザベスは小児HIV/AIDS研究のための資金調達のため、2人の友人とともに小児AIDS財団(Elizabeth Glaser Pediatric AIDS Foundation)を設立。
グレイザー一家はプライベートでの静かな暮らしを願っていたが、アリエルが亡くなった翌年の1989年8月、「ナショナル・エンクワイアラー」などのタブロイド紙がグレイザー一家の暴露記事を公表した。エリザベス・グレーザーは1991年に自伝「天使不在の中で」で悲惨な体験談を語り、メディアの無責任な報道に対抗した。
エリザベスは1994年12月3日、サンタモニカの自宅でAIDSの合併症により47歳で死去。1984年に生まれた息子のジェイクは健康を保ち、後にAIDS患者に代わってパブリック・スピーカーとなった。

(引用:"Elizabeth Glaser — Life and Legacy" PEDIATRIC AIDS COALITION)
参考・引用
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- "Elizabeth’s Story" Elizabeth Glaser Pediatric AIDS Foundation
- "Elizabeth Glaser — Life and Legacy" PEDIATRIC AIDS COALITION
- "Breaking a Silence: 'Starsky' Star, Wife Share Their Family's Painful Battle Against AIDS" The Official Website of Paul Michael Glaser
- "After losing her mother and sister to AIDS, Jake Glaser overcame the 'Survivor's Guild' to help other" Oh
- "Princess Diana says, "Well's before her mother dies of AIDS, Elizabeth Glaser's son Jake says" Oh
- "AIDS THE GLASER FAMILY'S BATTLE" The Washington Post
- "Before Charlie Sheen, They Went Public With HIV" Forbs
- "Elizabeth Glaser" WikipediA
8月11日


ラリー・クレイマー氏、パンデミックについて語る会を初開催
ゲイの著名な作家で映画プロデューサーのラリー・クレイマーは、ニューヨークのアパートで80人以上のゲイ男性を集めて、急成長している疫病について話し合う会合「Exit Disclaimer(免責事項)」を開催した。
クレイマーは、ニューヨークのゲイ男性の間でカポジ肉腫が広がっていることに警鐘を鳴らす皮膚科医のフリードマン・キエン博士を招き、講演を依頼。
博士は、「ゲイ男性を好む謎の新病の到来である」と説明
博士が、この病気は「ゲイの性行為に関する何か」と関係があるのではないかと示唆すると、参加者は、新たに手に入れた性の自由が致命的な意味を持つかもしれないと考え危機感を強く感じていた、とデイヴィッド・フランスはエイズ危機を描いた『ペストを生き抜くには』に書いている。
フリードマン-キエン博士が出席者に、研究を支援するための寄付を求めたところ、6,635ドルが集まった。
後にHIVやAIDSと呼ばれるようになる病気について、資金集めや意識向上を図る初期の取り組みは、そのままゲイメンズ・ヘルス・クライシス(GMHC)委員会の設立につながった。この委員会は、1982年夏に法人に移行し、ニューヨークのHIV/AIDSに関する主要なサービス組織となる。
クレイマー自身は、新しい病気についての認識を高め、ゲイメンズ・ヘルス・クライシス(GMHC)への寄付を募る活動の初期のリーダーとして登場することになる。しかし、クレイマーは、ゲイ・コミュニティのメンバーから、不必要なパニックを引き起こし、ゲイ・セックスを悪者扱いしていると非難され、すぐに異議を唱えることになる。

(引用:Remembering Larry Kramer Through His Most Powerful Words: AnOther)
参考・引用
- "A Timeline of HIV and AIDS" HIV.gov
- “HIV/AIDS Timeline” NEW YORK CITY AIDS MEMORIAL
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- "AIDS Crisis Timeline" HISTORY.COM
- 「分裂する事実:1980年代日本のエイズ報道過程の分析」滝口倫子
- "Remembering Larry Kramer Through His Most Powerful Words" AnOther
- "The Love and Rage of Larry Kramer" THE CUT
- Gay Men's Health Crisis(GMHC)
8月28日

「疾病率および死亡率週間報告(MMWR)」が70件の追加症例を報告
「疾病率および死亡率週間報告(MMWR)」は、7月3日の発表以降、70件のカポジ肉腫やニューモシスチス・カリニ肺炎の症例の報告を受けていると発表。
れまでに報告された108件の症例のうち、107件は男性であり、97%がゲイ・バイセクシュアル男性で、40%の患者はすでに死亡していると報告。
記事では、新しい病気が蔓延し、感染者の結果が迅速かつ残忍な死である可能性が高いという兆候について、ゲイコミュニティに警告を発している。
参考・引用
9月15日

最初の医療会議
米国国立癌研究所(NCI: National Cancer Institute)と米国疾病対策予防センター(CDC)が共催し、メリーランド州ベセスダに50人の有力な臨床医が出席した最初の医療会議が行われた。
会議では、カポジ肉腫やその他の日和見感染症に焦点を当て、疫学、ウイルス学、治療などに関するさらなる研究のための推奨事項を策定。
参考・引用
9月21日

サンフランシスコに最初のAIDSクリニック
カリフォルニア大学サンフランシスコ校メディカルセンターに皮膚科医マーカス・コナント博士が、腫瘍学者のポール・ボルベリング博士と共同で、全米初のカポジ肉腫クリニックを開設。
この2人の医師は、同僚のコンスタンス・ウォフシー博士、ドナルド・エイブラムス博士とともに、サンフランシスコのエイズに対する初期対応の多くを指導することになる。
コナント博士はその後、「サンフランシスコ・エイズ財団」(The San Francisco AIDS Foundation:当初の名称は「カポジ肉腫研究教育財団」The Kaposi’s Sarcoma Research and Education Foundation)を設立し、病気についてまだ否定的だった地域社会に入り込む必要性と、政府以外の資金源を見つける必要性の両方に対処することになった。
参考・引用
10月29日


イギリスで最初の死亡者
この日、英国チェルシーのロイヤル・ブロンプトン病院でゲイ男性がニューモシスチス・カリニ肺炎で亡くなった。
彼は3ヶ月に渡り体重が激減し、倦怠感と進行性に苦しみ、入院してから10日後に 亡くなった。ジョンの主治医は、彼の稀な肺炎による死因がウイルスによるもだとは、気づくことはできなかったが、ジョンは何度もマイアミなど米国に旅行したことがあり、米国のゲイ・コミュニティを席巻している謎の病気で死亡した疑いがあると、1981年12月12日の医学誌「ランセット」に症例が掲載された。
40年後の2021年11月、ITVトゥナイトという番組スタッフの探索により、1981年の死亡証明書と49歳で亡くなったゲストハウス経営者のジョン・イーディーと一致することが判明し、英国でAIDSによる最初の犠牲者であることが分かった。
参考・引用
12月

ニューヨークで重度の免疫不全の症状を示す5人の黒人乳児
ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学で、小児免疫学者のアーリー・ルービンスタイン博士が、ニューモシスチス・カリニ肺炎を含む重度の免疫不全の兆候を示す5人の黒人乳児を治療。
少なくとも3人の子供の母親は、薬物使用や性労働に従事していることを公表している。ルービンシュタイン博士は、子供たちがゲイの男性と同じ病気の兆候を示していることに気づいたが、彼の診断は当初、同僚たちによって否定された。
マイケル・ブローダーは『Psitively Aware』に寄稿し、「この時こそ、エイズが黒人社会に根を張り、性的接触、ドラッグの使用、母子感染によって、男性、女性、子供の間で流行した瞬間であった」と書いている。
1987年には、ニューヨークを中心に、特に少数民族の間で小児エイズ患者が増加することになる。多くの赤ちゃんが孤児となり、その里親を探すソーシャルワーカーにとって、乗り越えられない難題が生まれることになる。
医療専門家の予測では、市内の感染幼児は3,000人にのぼるとされていたが、ニューヨーク市では1987年末までに241人の小児エイズ患者が記録されただけだった。このうち人種別では、黒人59%、ヒスパニック32%、白人8%であった。
参考・引用
12月5日

皮膚科学会でカポジ肉腫のパンフレットを配布
サンフランシスコとニューヨークの皮膚科医、マーカス・コナント博士、アルヴィン・フリードマン・キエン博士、ジェームス・グラウンドウォーター博士の3人は、若いゲイ男性を苦しめているまだ名前の知られていない病気について医学界に警告を発しようと、合衆国皮膚科学会に出席した人々にカポジ肉腫に関するパンフレットを配布した。
12月5日から10日にかけて開催されたこの学会には、米国とカナダの皮膚科医数千人がサンフランシスコに集まり、自分たちの医療分野の最新事情について話を聞いた。このパンフレットは、学会参加者の多くが、カポジ肉腫と、まだ名前の知られていない病気であるエイズとの関わりについて初めて得た情報であったと思われる。
「当時は、この問題について知っている人は少なかったし、注目もされていなかった」と、後にサンフランシスコ・エイズ・オーラルヒストリー・プロジェクトのためにグラウンドウォーター博士が回想している。「この問題の深刻さ、つまり将来大きな問題になる可能性が広く認識されていなかったのだと思います」。
グラウンドウォーター博士は、パンフレットの説明文を書き、患者のカポジ肉腫病変の写真を使い、皮膚科医がこの病気がどのように現れるかを見ることができるようにした、と語った。この患者は、米国疾病対策センター(CDC)に報告された最初のカポジ肉腫患者であるケン・ホーンである。ホーン氏は、この会議の数日前、1981年11月30日に亡くなっている。
参考・引用
12月10日


ボビー・キャンベル、「ゲイ癌ジャーナル」発行開始
サンフランシスコの看護師ボビー・キャンベルは、1981年2月から帯状疱疹、秋口に白血球減少症を含む異常な病気の連続に苦しんでいた。9月に恋人とのハイキング中に足の異変に気づき、10月8日に皮膚科医のマーカス・コナント博士によって全米で16人目カポジ肉腫と診断された、博士にとっては初めてのエイズ患者であった。
当時、サンフランシスコではニューヨークのように新たな病気「ゲイの癌」についての情報がほとんどなかったため、キャンベルはそれまでの教育支援活動とゲイのセクシャルヘルスに関する専門家として、カポジ肉腫と診断された10月、自分のカポジ肉腫で病変の写真を、当時のサンフランシスコのゲイタウン、カストロ・ストリートのスター薬局のウインドーに掲示し、同じような症状がある男性は医師の診断を受けるように勧めた。
キャンベルは友人である、ゲイを対象とした新聞サンフランシスコ・センチネル紙の編集長ランディ・アルフレッドと相談し、コラムを書くことに同意。12月10日の最初の記事、「看護師自身のゲイ癌ストーリー」の「私は生き残る」という記事で、「自分がカポジ肉腫のポスター・ボーイ(後にエイズのポスター・ボーイ)」であると宣言。アメリカでカポジ肉腫にかかっていると公にした最初の人物となった。

(引用:"lgbt-history-archive" Tumblr)
また1982年には、シスターズ・オブ・パーペチュアル・インダルジェンスという修道女のコスプレで活動するドラァグ・クイーンのグループに参加し、シスター・フローレンス・ナイトメアRNというドラァグ名で、初のセーファーセックス・マニュアル「プレイ・フェア!」を発行、コンドームのアウトリーチ活動などの啓発活動を行った。
同年2月には、自身と同じくカポジ肉腫と診断されたばかりのダン・ターナーと共に、カポジ肉腫/AIDS財団の創設会議に参加、後にサンフランシスコ・エイズ財団となり、キャンベルは取締役を務めた。
また、キャンベルはまた、末期がんの人々を支援するという当初の目的から、エイズと診断された人々の心のケアを提供するシャンティ・プロジェクトに関わるようにもなる。
同時に、エイズ患者がエイズ危機への対応に積極的に参加することを期待すべきであると主張し、「エイズ患者自己啓発運動」(PWA:Person With AIDS)の立ち上げなど、幅広く活動を行った。
1983年にキャンベルは、サンフランシスコとニューヨークで同時に開催された最初のエイズ・キャンドルライト・マーチの組織化を支援。
5月の最後の週に、キャンベルとターナーはデンバーで開催された第5回レズビアンとゲイの健康会議に出席。そこで数十人のHIV陽性者と会い、医療従事者、エイズ患者、および流行に関心を持ったり影響を受けた人の権利と責任をまとめたデンバー原則として知られる声明を協働で作成。「人間の尊敬を受ける権利」と「尊厳を持って死に、そして生きる権利」を主張した。
8月8日、キャンベルは恋人のボビー・ヒリアードと共にニューズウイークの表紙を飾り、カバーストーリー「ゲイ・アメリカ:セックス、政治、エイズの影響」が掲載された。メジャーの全国誌の表紙に、抱き合う2人のゲイ男性が掲載されたのは初めてのことだった。
1984年7月15日、彼はサンフランシスコで開かれた民主党全米大会中に開催されたレズビアンとゲイの権利のための全国行進で、「フェミニスト、登録民主党員、エイズ患者」として紹介され演説。
その1ヶ月後の8月15日、HIV/AIDSと共に3年半生きた後、この世を去った。2日後、カストロ通りは閉鎖され、彼の死を悼み、彼の人生を祝い、人間の尊厳に対する彼の多大な貢献を称えるために人々が集まった。2014年、カストロ・ストリート・ヒストリー・ウォークの銘板が彼を記念し、彼が「カストロ・ストリート498 番地にあるスター ファーマシーの窓口に『ゲイのガン』に関する最初の通知」を掲示した日を記念しました。今年、彼はサンフランシスコのレインボー・オナー・ウォークの受賞者に選ばれた。

(引用:"Bobbie Campbell" WikipediA)
参考・引用
12月20日
ミュージカル「ドリームガールズ」、ブロードウェイで開幕
この作品での伝説的な演技でトニー賞主演女優賞に輝いた主演のジェニファー・ホリデイと、同じく主演女優賞にノミネートされたシェリル・リー・ラルフは、今では名作となったこのミュージカルで大きくキャリアを飛躍させたが、キャスト仲間が病気で亡くなったことをきっかけに、エイズとの闘いに身を投じていく。
また、このミュージカルの演出家であり、「コーラスライン」などの名作ミュージカルを手掛けたマイケル・ベネットも1986年にAIDSと診断され、数少ない親しい友人以外には病気のことを伏せていたが、翌年の1987年7月2日に44歳の若さでAIDS関連の病気で亡くなった。
ジェニファー・ホリデーはHIV&col;AIDSの啓発やサポート活動に捧げ、2017年には楽曲「Hold On」をリリースし、すべての収益をBroadway Cares/Equity Fights AIDSへ寄付されている。Broadway Cares/Equity Fights AIDSは、ブロードウェイの劇場関係者全員が参加し活動している、HIV&col;AIDS患者の救済、その研究支援を主な目的とし、様々なイベントを主催するチャリティ団体・基金。
「男性コーラスのメンバーやスタッフたちの命を奪ったからです」とジェニファー・ホリデーは「THE BROADWAY BLOG」に語っている。
「友人やキャストが病気で死んでしまった」と、シェリル・リー・ラルフも後にオンラインメディアのハフィントン・ポストに書いている。「彼らは今日、病気になって、明日死ぬんだ…誰もそのことについて話したがらないし、ましてやその病気についてはタブー、ゲイの病気について誰も何かしようともしないので、致命的な沈黙が訪れるのです。沈黙は耳をつんざくようなものでした。」
2008年のStar Tribune紙のインタビューでは、「もうこれ以上、住所録から名前を消せないほどだった」と語っている。
シェリル・リー・ラルフはその後、HIV/AIDSの啓発を行うDIVA財団(Difinely Inspired Victoriously Aware)を設立する。
「エイズ・ヘルスケア財団とブラックリーダーシップ・エイズ危機管理連合のもとで、重要なプログラムとなっています。彼らは、住宅があることを人々に知らせ、宿泊場所を必要とする人々に奉仕したいのです。」

(引用:"Dreamgirls" PLAYBILL)
参考・引用
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- "Jennifer Holliday Releases Single to Benefit Broadway Cares/Equity Fights AIDS" PLAYBILL
- "Jennifer Holliday Releases Track to Benefit BC/EFA" BROADWAY WORLD
- "JENNIFER HOLLIDAY ON ‘DREAMGIRLS,’ BEING AN LGBTQ ICON, AND TURNING 60" THE BROADWAY BLOG
- "WORLD AIDS DAY: Sheryl Lee Ralph On Losing Loved Ones to AIDS, Knowing Your Status" ESSENCE
- "A Singing Sheryl Lee Ralph Honored for Three Decades of AIDS Activism: “Raise Your Voice”" The Hollywood reporter
- 「ドリームガールズ」WikipediA
- Broadway Cares/Equity Fights AIDS
- the AIDS Healthcare Foundation
- the Black Leadership AIDS Crisis Coalition
12月31日

米国で年末までに130名が亡くなる
年末までに、米国で報告された重症免疫不全者の症例は累計337件で、成人321件、13歳以下が16件となっています。このうち、130人は12月31日までにすでに死亡。患者の45%が亡くなったことになる。
このときまでに、一部の研究者は「ゲイ関連免疫不全(Gay-related Immune Deficiency)」と呼び始めた。
この用語は、流行をゲイ男性に限定し、医療従事者と一般市民への大きな誤解を生むこととなる。
参考・引用
1981年(昭和55年)の主な出来事
主な出来事
- 1月20日:イランでのアメリカ大使館人質事件、444日ぶりに人質を解放
- 1月25日:中国の四人組裁判で故毛沢東夫人の江青らに死刑判決
- 2月15日:東京有楽町の日劇が48年の歴史に幕
- 3月2日:中国残留日本人孤児47人、初の正式来日
- 3月20日:神戸で「ポートピア'81」が開幕
- 3月31日:ピンク・レディー解散
- 4月9日:米原潜当て逃げ事件
- 4月18日:日本原子力発電敦賀原子力発電所での放射能漏れ事故が発覚
- 4月12日:スペースシャトル・コロンビアが初のスペースシャトルミッションで打ち上げ
- 5月23日:日本では絶滅したと思われていた朱鷺(トキ)が、中国で野生のトキ7羽発見される
- 6月15日:パリ警視庁、オランダ人女性留学生殺害暴行容疑のパリ大学日本人留学生逮捕
- 6月17日:深川通り魔殺人事件
- 7月26日:福岡市地下鉄空港線の室見駅 – 天神駅間が開業
- 7月29日:スペンサー伯爵令嬢ダイアナ、英国王太子チャールズ(のちのチャールズ3世)と結婚
- 8月12日:IBMがMS-DOS搭載の「IBM PC」を発表。
- 8月:台風15号関東直撃
- 8月22日:遠東航空103便墜落事故で作家の向田邦子が亡くなる
- 9月5日:三和銀行大阪茨木支店女行員、オンラインごシステム悪用による1億3000万円の詐取が発覚
- 10月6日:エジプトのサダト大統領暗殺事件
- 10月16日:北炭夕張新鉱でガス突出事故
- 10月19日:京大教授福井謙一、フロンティア電子理論によりノーベル化学賞受賞
- 10月28日:東京地裁ロッキード裁判丸紅ルート公判で榎本被告の前夫人三恵子、「榎本が5億円受領を認める発言をしていた」と証言(「蜂の一刺し」発言)
- 11月13日:沖縄本島の山地で1世紀ぶりに新種の鳥を発見、ヤンバルクイナと命名
- 11月18日:三浦和義ロス疑惑事件
- 12月8日:ガダニーニのバイオリンの偽造鑑定書事件に関連して東京芸大教授海野義雄を収賄容疑で逮捕
- 1981年の邦楽ヒット曲:
- 1位:ルビーの指環(寺尾聰/132.7万枚/日本レコード大賞)
- 2位:奥飛騨慕情(竜鉄也/128.0万枚/日本有線大賞)
- 3位:スニーカーぶる~す(近藤真彦/104.7万枚)
- 4位:ハイスクール・ララバイ(イモ欽トリオ/95.9万枚)
- 5位:長い夜(松山千春/86.6万枚)
- 6位:大阪しぐれ(都はるみ/86.2万枚)
- 7位:街角トワイライト(シャネルズ/71.7万枚)
- 8位:恋人よ(五輪真弓/70.2万枚)
- 9位:チェリーブラッサム(松田聖子/67.4万枚)
- 10位:守ってあげたい(松任谷由実/67.4万枚)
- 1981年の流行語:
- クリスタル族
田中康夫著「なんとなくクリスタル」に影響され、ブランド志向の女子大生を指す - なめ猫
セーラー服やガクランを着た猫の写真やポスターが流行 - 窓ぎわのトットちゃん
黒柳徹子の自伝的物語がベストセラーになる - カラス族
パリコレ初登場の日本人デザイナー、山本耀司と川久保玲のデザインに触発され、全身を黒一緒のダブダブの衣服を着る女性たちを指す。 - 蜂の一刺し
ロッキード裁判丸紅ルート公判で検察側の証人として出廷した榎本三恵子氏が記者会見で発した言葉
- クリスタル族
タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアル・マイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。