HIV/AIDSの歴史
1983年
ウイルス発見と混乱
1983年
7月1日
全米エイズ・ホットライン開設
公衆衛生局(PHS)は米国疾病対策センター(CDC)のサービスとして、一般からの問い合わせに対応するために、「全米エイズ・ホットライン(NAH:National AIDS Hotline)」を開設。
7月28日までに、毎日8千人〜1万人の相談があり、電話回線を3回線から8回線に増やす必要に迫られた。
全米エイズ・ホットラインのサービスには、HIV/AIDSに関する一般からの質問や、州や地域のリソースの紹介などの対応を行い、すべてのサービスは無料で提供されている。
サービスは、フリーダイヤルの電話システムを通じて、1日24時間、週7日、全米エイズ・ホットラインにつながり、英語を話す人、スペイン語を話す人、聴覚障害者に提供。
約170名のインフォメーション・スペシャリストを雇用し、最新のテレコミュニケーション技術を駆使して、43のワークステーションに電話を効果的に管理し、誘導している。米国疾病対策センター(CDC)のNational AIDS Clearinghouseのデータベースにアクセスし、紹介や出版物の注文も可能。
1983年の設立以来、全米エイズ・ホットラインは世界最大の健康関連ホットラインサービスに成長。1987年10月以降、年間平均約140万件以上の相談に対応している。
参考・引用
スタンフォード血液銀行が献血のスクリーニング検査を開始
スタンフォード血液センターは、AIDSの輸血感染リスクを低減することを特に意図した初の血液検査プログラムを実施。1983年7月から1985年6月にかけて、合計33,831件の献血がスタンフォードでスクリーニング検査され、そのうち586件はCD4数が少なく、感染の可能性があるとして廃棄された。
スタンフォードは、この586件の献血の血清サンプルを保管し、数年後、検査が可能になったときに、HIVに特化したスクリーニング検査を実施。スタンフォード血液センターのエド・イングルマン博士は、このうち1.9%がHIV陽性であることを発見。これは、約33人のHIV感染を回避できたことになるという。
献血された血液をHIV/AIDSの指標でスクリーニング検査する米国初の血液銀行として、新しい方針はCD4-T細胞が少ない人からの献血を排除した。AIDSではCD4-T細胞が失われることで、患者はさまざまな感染症疾患にかかりやすくなる。したがって、このスクリーニング検査は、必ずしもHIV/AIDSの存在を特定するのではなく、HIV/AIDS感染の可能性を示す指標を特定する代替検査とされた。
この新しいスクリーニング検査ステムは、サンフランシスコの医療界でAIDSに対する認識が高まり、既存の血液保護対策に懐疑的な見方が強まったことから生まれた。1983年春、スタンフォード病院は2人のAIDS患者を治療した。どちらもベイエリアの施設で輸血を受けたことがあり、ハイリスク・グループであることは確認されていなかった。
イングルマン医学博士は回想している。
この時点で、スタンフォード血液センターの私と同僚は、地域の血液供給におけるAIDSの病因と推定される物質の存在を無視できないと感じました。この感染症は致死率が高いので、血液供給を守る唯一の手段として、自己申告に頼ってはいけないと思ったのです。
イングルマン博士の言う自己申告とは、公衆衛生局(PHS)が当時推奨していた、ドナーが自発的にハイリスク・グループの一員であることを申告することに頼ることを指す。全米の血液センターでは、この公衆衛生局(PHS)の勧告に基づき、ドナー希望者にAIDSリスク・グループに関する情報シートを提供し、リスクの定義に該当する場合はドナー自身を除外するよう求めるのが一般的だった。
この方法がうまくいかないことは予想できた。
第一に、この方法はドナーの自己責任に完全に依存していた。
第二に、公衆衛生局(PHS)の同性愛者のエイズ・リスク行動の定義が曖昧であったため、同性愛歴のあるドナー希望者が、自分にはエイズのリスクはないと感じて献血に踏み切る可能性があった。
スタンフォード大学血液センターのスクリーニング検査方法は、コストがかかり、手作業で行わなければならなかったが、スタンフォードでは、すでに免疫学研究を行っており、フローサイトメーターと適切な実験環境を利用できたため、比較的容易に実施できたと考えられる。
この頃、米国赤十字社(ARC)、米国血液銀行協会(AABB)、地域血液センター協議会(CCBC)は、輸血によるAIDS発症のリスクを「100万分の1」と推定する共同声明を発表している。これは楽観的すぎる見解であったことが判明した。
2年後の1985年に初めてHIV抗体検査が可能になると、米国の大都市圏では献血の700単位に1単位がHIVに感染していることが判明したという。サンフランシスコでは、その頻度は100人に1人に近かった。
1983年から1985年にかけて発生した輸血関連HIV感染の総数は、少なくとも10,000〜20,000件と推定される。私たちのテストが使用されていれば、これらのケースのほとんどは回避できたと思われます。
と、イングルマン博士は語った。
参考・引用
7月2日
7月5日
トロイ・ペリー牧師がテレビでテレビ伝道師ジェリー・ファルウェルと討論
討論の中でファルウェルは、AIDSは同性愛者の乱交が原因であるとして、浴場の閉鎖を義務付けるよう求めた。
そして、AIDSは同性愛に対する神の罰であるとの前言を撤回。AIDSによる死亡者や病気については、間違った数字を引用していた。
ペリー牧師はこれに対し、「病気は多くの変数の結果であり、ファルウェルはAIDSの危険性をヘルペスと比較して軽視している」と述べた。
ペリー牧師は、自らの命を絶とうとしたことから立ち直り、1968年にLGBTQを包括するメトロポリタン・コミュニティ教会を設立。1970年にロサンゼルス初のプライド・パレードの道を開くために、ロサンゼルス市警を相手取って訴訟を起こしたことで、コミュニティではよく知られていた人物。
参考・引用
7月8日
7月11日
7月12日
各紙、安倍英厚生省エイズ研究班班長の受け持つ血友病患者の死亡を報道
安部英・厚生省エイズ研究班班長が受け持つ死亡した血友病患者が、エイズを発症していた疑いがあると、新聞各紙が報道。
朝日新聞「AIDS国内に上陸の疑い。五十代男性血友病患者、今月死亡、似た症状」
読売新聞「日本にもAIDS患者? 東京で50代男性、今月死亡。輸入血液凝固剤投与」
毎日新聞「AIDS患者いるか? 厚生省研究班きょう会合、疑惑の3例を検討。不安広がり『もしや』の相談も」
サンケイ新聞「『AIDS』日本上陸か、酷似の免疫機能低下徳島大でみつかる、血液製剤使い治療の子供2人」
朝日新聞の記事では、「多数の人の血液を混ぜる血液製剤に、AIDS患者の血液が混じる可能性がある。AIDSが血液製剤から感染されることは証明されていないものの、『AIDSの病原体が血液製剤に潜みつつある』ことが一部で疑われている」と血液製剤によるAIDS感染の可能性について触れている。
一方、安倍は「この患者は症状からみてAIDSの疑いがあることは確かだが、現時点断定することはできない。血液製剤を日本の三、四倍使う米国の血友病患者でも、AIDSの発症率は1000人に1人くらいのもので、日本の血友病患者にAIDSが次々と発生するとは思われない。しかし、将来のことを考え、日本も血液製剤を自国民の献血でまかなえるようにすべきではないか。」とコメントしている。
参考・引用
7月15日
7月17日
ゲイバー&バスハウス、誤報が広まり空っぽに
ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ウェスト・ハリウッドとロサンゼルスのゲイ・バーの営業が20%減少。 また、同地域の6つの浴場では、売上が50%減少したという。
サーカス・ディスコのオーナーであるジーン・ラ・ピエトラのような一部の地域住民は、この減少は、エイズが何気ない接触によって感染する可能性があると誤って報じた以前のニュース記事に関連しているのではないかと考えている。
参考・引用
7月19日
新聞各社、AIDS患者確認断定見送りを報道
朝日新聞「AIDS上陸を否定、厚生省研究班、病院に相談窓口も」
朝日新聞は、厚生省の今後の対応として、四、五カ所の病院に電話による専門窓口を設けること、全国の病院からいくつかを選び、研究班の診断基準をもとにAIDSの疑いのある症例を報告する監視システムを始めるとの報道。
読売新聞「『AIDS』に厳戒体制」
読売新聞は、厚生省では今後、血友病患者の多い施設に対する調査を進め、近く各都道府県を通じて市町村窓口などでAIDSの実態を知らせて一応の注意を呼びかけるとの記載。
日刊スポーツ「日本も灰色?AIDS上陸ご免だ!」
日刊スポーツでは、血液製剤輸入の大手であるカッタージャパン社ではAIDS研究資料を作り血友病患者に配布、全国ヘモフィリアの会でも海外から資料を大量に集め自衛手段を必死に考えているとの報道。
共同通信「AIDS患者と診断できず、厚生省研究班が協議」
共同通信では、海外旅行者などがリスクグループとの濃厚な関係を避けるよう国民にPRするほか、不安を持つ市民の相談窓口を数カ所設置することを決めたとの報道。
日本経済新聞「AIDS、患者確認できず、厚生省研究班が診断基準」
毎日新聞「AIDS、ひと安心」
サンケイ新聞「『日本上陸』断定できず」
東京新聞「現在、日本上陸はなし。AIDS患者、厚生省、診断基準作る」
参考・引用
8月1日
米国議会がAIDS対策に関する公聴会を開催
議会政府運営小委員会が、AIDSに対する連邦政府の対応について公聴会を開催。
公聴会では、議員たちが研究者、医療関係者、そして3人のAIDS患者の証言を聞いた。
レーガン政権がようやくAIDS活動家の要求を認めるまでには、さらに4年を要することになる。
マイケル・カレン(ニューヨーク)の証言
1955年4月11日生まれ、1993年12月27日、死去。
1981年12月に、私はかかりつけの医師から血液検査を受けました。その結果、私は免疫不全であることが判明しました。
1981年当時、この病気についてはほとんど知られていませんでした。しかし、ゲイ関連のニュースでは、非常に珍しい病気が増えていることが報じられ始めていました。そして、そのいくつかの症状について説明されていました。
その中に発熱、寝汗、全身のリンパ節腫脹、倦怠感、疲労感などという症状があったので、私はとても心配していました。そこで私は検査を受け、1981年12月、申し上げたように免疫不全だと言われのでした。
免疫不全だと言われたときのショックは大きいものでした。そして両親に電話し、私はもう命がないのだと伝えました。
私は、CDCの定義による日和見感染症のひとつであるクリプトスポリジウム症と診断され、いわゆる消耗症候群ということで、1982年の夏に1週間以上入院しました。
その時が人生でも最悪のときでした。見聞きするすべてのものは、私がやがて死ぬことを示していました。
しかし、その特定の感染症からは回復し、1982年の秋に再入院しました。医師たちはニューモシスチス肺炎を疑い、私は気管支鏡検査などを受け、結局、気管支炎だったことが分かりました。
私の体験談は、この症候群を持つ人にはよくあることです。あまり知られていませんが…
1981年12月に医師から免疫不全を指摘されたとき、私は「それはどういうことか?」と聞いたが、医師は「分からない」と答えた。だから今、免疫不全と言われた多くの人々は、次の感染をただ待っているだけなのです。
私はいま、この病気に打ち勝つんだと信じるようになりました。もう死ぬとは思いません。でも、新聞を読んだり、テレビを見たりして、この病気で完治した人はいないだとか、診断された80%の人が2年後には亡くなっているなどと聞くと、とても不安になります。
毎朝、カポジ肉腫の病変がないかチェックし、この病気に関する情報をひたすら待っています。
ロジャー・リヨン(サンフランシスコ)の証言
1948年9月30日生まれ、1984年11月4日、死去。
今年の2月3日にカポジ嚢腫と診断されました。
それまでアメーバ障害の治療は受けていましたがAIDS関連の症状はまったくありませんでした。でも、その時の検査で3つの病変が見つかったのです。
この日、基本的には100日前には、私自身では確かに180日前に、命に関わる病気に感染したことがわかったのです。
翌2月4日、私は医師の勧めもあり、予約もせずにカリフォルニア大学へ行って入院し、病期分類と呼ばれる病気の程度を判定するための一連の検査を受けました。
カリフォルニア大学はとても親切にしてくれましたが、その当時の私は茫然自失で、何も感じず、何も考えられず、ただ動いているだけでした。
いま私は、毎日、何が起こるのかを待ちながら、ある朝目が覚めると何かしらの病変があり、他の日和見感染症のクリプトスポルジア症や、もしかしたらニューモシスチス肺炎を発病しているのかもしれないという不安に怯えながら生活しています。
アンソニー・トニー・ファラーラ(ワシントン)の証言
1954年生まれ、1984年6月4日、死去。
最初に何かおかしいと思ったのは去年の夏のことでした。
リンパ節腫脹があり、特に顎や喉の周り、腕の下のリンパ腺に腫れがあり、数ヶ月間続いたのですが、疲労感も寝汗も発熱もありませんでした。実際、11月に海兵隊のマラソンを完走しましたが、そのときにはすでに重病だったはずです。
やがてリンパ節の腫れは治まったので、それ以上は何も考えていませんでした。私はAIDSについての本もずっと読でいたし、もちろん、ゲイを自覚している男性なら誰でもそうだったようにAIDSについてとても心配していました。
2月に、両方それぞれの太ももの内側に紫色の小さな病変を見つけた。それが何なのか、あるいは何の可能性があるのかが分かっていたので、1ヶ月後もまだ残っていたら治療を受けるかどうかの診断を仰ごうと思いました。そして3月になっても消えていませんでした。
私はジョージ・ワシントン大学の健康保険に加入していました。そこで私は、それが何なのか確認するために病変のひとつを生検するべきだと伝え、私の性生活も教え、私がAIDSを発病している可能性が高いことを伝えました。結果、カポジ肉腫と診断されました。3月8日のことでした。
その日はとても動揺しました。夜に帰宅すると、大切な人が抱きしめてくれた彼に言いました。「どうして私はアリー・マックグローのような気持ちになったんだ、まるで映画じゃないか。本当に恐ろしい…これまで経験したことのない恐ろしさだ…」
うつ状態は約1ヶ月続いたけれど、もしこれを乗り越える可能性があるのなら、少しでも生き延びる可能性がるんだったら、もっと前向きになって、できる限りの自分の人生を生きて、あまり考えないようにしようと決めました。
私はとても幸運でした。私には大学にいる非常に優秀ながん専門医のもとで治療を受けるか、国立衛生研究所で治療を受けるか、2つの選択肢がありました。
国立衛生研究所が私を希望したのは、その時点で私がとても元気だったからだと思います。きっと研究に役立つのだと判断したのでしょう。それに、もし自分がこの病気にかかっていて、まだ誰もこの病気について情報がないのであれば、研究をしている彼らの場所で治療を受けるのが最適だと思いました。
- アリー・マックグロー
- 1970年に世界的に大ヒットしたアメリカ映画「ある愛の詩(Love Story)」で、白血病のために亡くなるのヒロインを演じた俳優。
- 劇中、ヒロインが恋人に遺した「愛とは決して後悔しないこと」というセリフは流行語にもなった。
参考・引用
8月6日
歌手・パフォーマーのクラウス・ノミ、亡くなる
稀代のカウンターテナー、クラウス・ノミが39歳の若さでAIDSにより死去。そのスタイルはオペラ、ニュー・ウェイヴ、ロックなど多岐にわたる。エイズで死亡した最初の著名人としても知られ、ニューヨークやフランスではカルト的な人気を誇っていた。
クラウス・ノミは1944年、ドイツのバヴァリアにクラウス・スパーバーとして生また。
オペラ歌手としての訓練を積み、1972年にニューヨークに移り住む。コックの仕事をしながら、マネキンのパフォーマンスなどで生活をしていたが、ほどなく、ニューヨークのライヴハウスに出演するようになる。
真っ白に厚化粧し、奇抜な服装を身にまとい、カウンターテナーでアリアからポップ・ミュージックに至るまで、オリジナル楽曲と風変わりなアレンジでカヴァーした楽曲を披露し、アンダーグラウンド・シーンであっという間に注目を集める存在になった。
そのパフォーマンの噂をききつけたデヴィッド・ボウイが彼にコスチューム・デザインとNBC TV 「サタデー・ナイト・ライヴ」のバック・コーラスを手伝ってくれるように依頼。その番組への出演で、より一般に注目されることとなった。
アメリカではレコード契約に至ることがなかったが、1981年フランスのRCAと契約、ファースト・アルバム『オペラ・ロック(Klaus Nomi)』を発表する。翌年1982年にはラスト・アルバムとなってしまう『シンプル・マン(Simple Man)』を発表。
このセカンド・アルバムが発表される頃には彼の体はすでにエイズに蝕まれていた。1983年夏、39歳の若さで短い人生を閉じた。まだエイズが「ゲイの癌」として忌み嫌われていた80年代初頭であり、著名人第一号患者として、誹謗中傷にさらされるなかでの非業な死であった。
名声を求めながら、傷つきやすい同性愛者として愛を求めたドラマチックな半生と歌声は今なお多くのファンの心に焼き付いているはずだ。
当時、日本ではパルコや石橋楽器とのコラボレーションやセイコーのCMで記憶に残っている人も多いはず。あの『スネークマンショー』にも彼の「コールド・ソング」が使われているので、こちらで彼の名前を知った人も多いはず。また、江口寿史の漫画『ストップ!ひばりくん』の中でも彼のキャラクターが使われていた等など、一時は“時の人”として話題を呼んでいた。
参考・引用
8月8日
ニューズウィーク誌が「ゲイ・アメリカ」を表紙に
ニューズウィーク誌の特集「ゲイ・アメリカ:セックス、政治、エイズの影響」で、AIDS活動家ボビー・キャンベルと彼のパートナー、ロバート・"ボビー"・ヒリアードが表紙を飾った。
米国の主流全国誌の表紙で2人のゲイ男性が抱き合う写真が掲載された初めてのケースだったが、キャンベルは、メディアに取り上げられることには慣れていた。
彼はサンフランシスコで16番目にAIDS関連の病気だと診断されたあと、AIDSと共に生きる人として初めて公にカミングアウトした人物。
ニューズウィーク誌の表紙を飾ったほぼ1年後、キャンベルは、1984年にサンフランシスコで開催された民主党全国大会の「レズビアンとゲイの権利のための全国行進」で最後のスピーチを行った。キャンベルは、ニューズウィーク誌の表紙を飾ったボーイフレンドとハグをしたのは、ゲイの愛は美しいということをアメリカ中部に示すためだと語った。
キャンベルは1984年8月15日にAIDSで亡くなり、ヒリアードはその数ヵ月後にAIDSで亡くなった。
2014年には、カストロ・ストリートのヒストリー・ウォークに、キャンベルと彼の作品を記念するプレートが設置された。
関連項目
- ボビー・キャンベル、「ゲイ癌ジャーナル」発行開始(1981年12月10日)
- セーファーセックスについて最初のパンフレット(1982年6月27日)
- サンフランシスコとニューヨークでキャンドルヴィジルを開催(1983年5月2日)
- キャンドル・マーチ、全米に広がる(1983年5月3日)
- デンバー原則、採択(1983年6月12日)
- 1,500人がエイズ対策資金を求めて行進(1983年10月8日)
- 初期のAIDS活動家ボビー・キャンベル死去(1984年8月15日)
参考・引用
8月17日
エディー・マーフィー、有料テレビネットワークで暴言
エディ・マーフィが、会員制のネットワークTVでのコメディ特番『Delirious』で、冒頭で5分間に渡ってゲイ男性やHIV/AIDSにさらなる汚名を着せるネタを放送。マーフィーは1996年、ある映画の撮影中にサンフランシスコの同性愛者権利活動家たちが抗議デモを起こしたことをきっかけに謝罪した。
俺はスタンダアップコメディをやるとき、ルールがあるんだ。俺がステージにいる間、ホモ野郎は俺のケツを見てはいけない。だからここにいる間は動き続けるんだ。
俺はハリウッドに行って、ゲイのミスター・Tと出会う悪夢を見たんだ!
ミスター・Tは、1980年代の人気TVシリーズ「特攻Aチーム」でコング役を演じるなどした俳優。
こうしてショーは始まり、AIDSの話に入るまで同じように続き、「ゲイは怖い」、「エイズは人を殺す」と彼は言う。「女の子たちが彼らとつるんでいるからだ。」。彼らとはゲイの男たちのことだった。
ある夜、女の子たちはクラブでゲイの友人と楽しんでいて、ちょっとしたキスをするかもしれない。そして唇にAIDSを塗って家に帰るんだ!
そして5年後くらいに誰かが彼女の夫に、
「ジョンソンさん、あなたはAIDSです」って言うんだ。
「AIDS?でも私はホモじゃない!」
「はい、はい、もちろんホモじゃないはずですよねぇ!」
番組の中で彼はAIDSを揶揄するジョークを言い、ゲイへの中傷を何度も繰り返した。
この番組は、一般に公開された後、このショーは何百万人もの人々に視聴されるようになり、グラミー賞も受賞している。
放送当時、AIDSは原因も治療法も分からない、新しく恐ろしい病気だった。そして、ゲイ男性は最も大きな打撃を受けていただけではなく、マスコミや保守的な起業家たちによって中傷されていた。
CBSのインタビューで、マーフィーは昔のネタを今でも面白いと思うかどうか尋ねられた。彼は、「いくつかはね。見ていてゾッとするものもある。私がそれを言っていたなんて自分でも信じられないよ。」と答えた。
当時のLGBTQ+コミュニティからの抗議に悩まされていたかと聞かれ、彼の答えは「その瞬間は、まあ、そういうことなんだろうという感じだった。」。
彼は過去の作品について付け加えて語った。「ああ、これは…不快だ!クスリとさせられるジョークもあるから評価しない訳じゃない。昔の反ゲイジョークは時代背景の中にあったんだ。」
後悔はないかと聞かれ、マーフィーは「まったくない」と答えている。
マーフィーは長い間『Delirious』の内容から距離を置いてきた。
マーフィーは、1996年に初めてその内容を否定し公式声明を出して謝罪し、「このようなことが引き起こした苦痛を深く反省しています。世界中の人々がそうであったように、1996年の私は、1981年の私よりもエイズについて学んでいます。」と語った。
エイズが世界的にどれほど深刻な問題であるかを知っている。AIDSが笑いごとではないことも知っている。1996年の今、私はAIDSについてより賢くなった。
私は同性愛嫌悪者ではないし、反同性愛者でもない。妻と私はエイズ研究に時間とお金の両方を寄付してきた。
身近な人もエイズで亡くなっている。この病気に何らかの形で触れていない人を私は知らない。
誰もが病気の人を知っている。黒人は地球上のどのグループよりも、この病気によって大きな打撃を受けている。
しかし、このコメディ特番は今でも時々テレビで放送され、Netflixのようなストリーミング・プラットフォームに再登場する。2016年にこのスペシャルがNetflix UKに追加された際には、マーフィーが同性愛嫌悪のコンテンツに出演していた過去を知らなかった衝撃的な視聴者から、星1つのレビューが相次いだ。
これはすぐにこのサイトから削除する必要がある。うんざりして5分も見ていられなかった。笑えない、ホモフォビックなゴミ!
今まで見た中で最もホモフォビックなルーティン。「ゲイの友達とキスしたら、ガールフレンドからエイズがうつるとか。80年代の憎悪に満ちた偏見が全開だ。
参考・引用
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- "1983. Eddie Murphy on “faggots” and AIDS" GAY in the 80s
- "Eddie Murphy’s homophobic comedy special “Delirious” is now streaming on Netflix" QUEERTY
- "Eddie Murphy’s Antigay “Joke” Past: Have We Forgiven, Or Did We Just Forget?" QUEERTY
- "Eddie Murphy says his old anti-gay jokes were ‘within the context of the times’" Pink News
8月19日
死亡した血友病患者のAIDS認定見送り
エイズ研究班は帝京大学症例を検討し、米国疾病管理予防センター(CDC)の診断基準(1983年3月15日)により「疑似否定形例」と判定し発表。
参考・引用
8月20日
「二人、改めてシロ 厚生省エイズ研究班」朝日新聞
ただし、この患者は、1985年に「第1号患者」として遡って認定。このときに認定しなかった理由としては、米国疾病管理予防センター(CDC)の診断基準にあった、ニューモシスチス・カリニ肺炎やカポジ肉腫を発症していなかったためとされている。
当時、この患者が「第1号」にならなかったことは、薬害エイズの側面、男性同性愛者差別の側面の双方から、非常に問題視されている。
薬害エイズの側面としては、非加熱血液製剤とエイズの因果関係について、この時点で専門家らは、血液製剤からエイズに感染することは証明されていないし、また、次々に発生することはないという認識だったようである。
男性同性愛者差別の側面では、1985年に男性同性愛者の患者が「第1号患者」に認定されたことにより、日本のエイズが男性同性愛者の問題とされ、血友病患者の問題が隠されたと言われている。
参考・引用
8月21日
8月28日
デビー・レイノルズ&リップ・テイラー、ハリウッド・ボウルでエイズ慈善イベントに出演
ハリウッド・ボウルで開催されたロサンゼルス初のAIDS慈善イベントに、映画スターのデビー・レイノルズがコメディアンのリップ・テイラーとともに登場。
カポジ肉腫財団のためのベネフィットは、厳密にはロサンゼルスでの第2回の募金活動だが、公共の場で開催されるのは初めて。
このイベントの主役であるレイノルズは、エリザベス・テイラーが提唱者となるずっと以前から、熱心なAIDS活動家であった、とジャーナリストのカレン・オキャンブは『The Pride LA』に書いている。
コメディアンのジョーン・リヴァース、女優のリタ・モレノ、俳優のロバート・ギヨームとともに、レイノルズは、HIV/AIDSがまだ多くの人々から敬遠されている時代に、AIDS募金活動に参加した最初のハリウッド・セレブリティの一人である。
参考・引用
- "HISTORY" STORIES | THE AIDS MONUMENT
- "R.I.P. Debbie Reynolds and Carrie Fisher, Early HIV/AIDS Allies" POZ
- "Debbie Reynolds, early Hollywood AIDS activist" the pride
- "Debbie Reynolds" WikipediA
- "Rip Taylor" WikipediA
- "Elizabeth Taylor" WikipediA
- "Joan Rivers" WikipediA
- "Rita Moreno" WikipediA
- "Robert Guilaume" WikipediA
9月1日
大韓航空機撃墜事件
参考・引用
9月2日
米CDC、医療従事者にエイズ曝露予防策を配布
米国CDC疾病管理予防センター(Centers for Disease Control)が、医療従事者の職業曝露を防止するための最初の推奨事項を発表。
後天性免疫不全症候群(AIDS):医療従事者および関連専門家に対する注意事項
後天性免疫不全症候群(AIDS)は1981年に初めて認識された。AIDSの疫学は、感染性病原体によって引き起こされるという仮説と一致している。
AIDSは親密な性的接触、または血液や血液製剤の経皮的接種によって感染するようである。何気ない接触や空気感染による伝播の証拠はなく、また医療従事者や検査従事者のAIDS症例で、特定の職業曝露に起因すると断定できるものはない。
CDCは、AIDS患者と接する臨床および検査担当者に対する推奨予防策を発表している。これらの専門家および関連する専門家に対する予防策は、感染の可能性のある物質に粘膜または非経口的に暴露されるリスクを最小化するためのものである。
このような曝露は、患者を直接ケアしているとき、臨床検体や検査検体を扱っているとき、またAIDS患者を扱う検査担当者が汚染した注射針などの器具に不注意または知らずに曝露することによって起こりうる。次のような患者からの分泌物や排泄物、特に血液や体液の取り扱いには注意が必要である。
- AIDSの既存のサーベイランス定義を満たす患者。
- 患者の病歴がAIDSの疫学的リスクを示唆する場合、慢性で全身性のリンパ節腫脹、原因不明の体重減少、および/または長引く原因不明の発熱を有する患者。
- AIDSの可能性のあるすべての入院患者。
AIDS感染予防のためのこれらの原則は、これまでの出版物では特に扱われていないが、上記の3つのグループに記載された病気の患者から感染する可能性のある物質に接触する可能性のある業務に従事する関連専門家にも採用される必要がある。
歯科医療従事者、死後検査従事者、死体衛生士は、上記3つのグループに分類される病歴を持つ患者と接する際には、以下の予防措置をとることが推奨される。
歯科医療従事者
- 歯科または口腔外科処置を行う際は、手袋、マスク、保護眼鏡を着用すること。
- 患者の口腔内で使用する器具は、使用後に滅菌すること。
剖検を行う者、または死体医サービスを提供する者
- 死後すぐの処置の一環として、死亡者は上記3つのグループのいずれに属するかを識別されるべきであり、その識別は遺体とともに残されるべきである。
- 剖検に携わる者は全員、二重手袋、マスク、保護眼鏡、ガウン、防水エプロン、防水靴カバーを着用する。死後検査中に汚染された器具や表面は、感染の可能性があるものとして取り扱う。
- 納棺師は、霊安室でのケアに使用される特定の手順を評価し、体液への職員の非経口的または粘膜的曝露を防止するための適切な予防措置を講じるべきである。これらの勧告および以前の勧告は、適切な感染制御の概要を示している。
AIDSの原因および感染に関する新しい情報が入手できるようになれば、これらの予防措置は必要に応じて改訂される。
CDCバイオセーフティ室感染症センター病院感染症プログラム宿主要因部門AIDS活動部より報告。
参考・引用
9月9日
CDC、日常生活での接触によるAIDS感染を否定
世界中で読まれているMMWRの記事で、CDCは、何気ない接触、食物、水、空気、環境面によるAIDS感染を否定。
CDC報告書「最新動向:後天性免疫不全症候群(AIDS)--米国(Current Trends Update: Acquired Immunodeficiency Syndrome (AIDS) -- United States)」の中で、CDCはHIVの主な感染経路をすべて特定し、日常生活での接触による感染は除外した。
最新動向:後天性免疫不全症候群(AIDS)--米国
MMWR編集注より
AIDS症例は、発症リスクの最も高いグループに分類されている。分類はあらゆる疫学調査において不可欠な要素であり、予防勧告の策定、研究の方向性の提示、医療ニーズの特定といった目的に役立っている。
しかし、ある特定の集団が本疾患により密接に関連しているという分類は、これらの集団が日常生活の中で感染させる可能性が高いと誤解する人もいる。この見解は、入手可能なデータからは正当化されない。それにもかかわらず、社会的・経済的差別の根拠として不当に利用されてきた。
同性愛男性、静脈内薬物乱用者、血友病患者、これらの患者の性的パートナー、輸血を受けた患者の間でAIDS患者が発生していることは、AIDSが性行為、あるいはあまり一般的ではないが、汚染された注射針や血液を介して感染する病原体によって引き起こされるという仮説と一致している。
報告されている症例の約91%がこれらの患者群で発生している。残りの症例では、AIDS患者やAIDS罹患率の高い集団に属する人々との日常生活での接触によって発症したという証拠はない。AIDSは食物、水、空気、環境面を通じて感染したという症例はない。
参考・引用
9月17日
ヴァネッサ・ウィリアムス、アフリカ系アメリカ人初のミス・アメリカに
参考・引用
タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアルマイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。