HIV/AIDSの歴史
1984年

ウイルス発見

1984年

2月

日本での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連国内で加熱第Ⅷ因子製剤の治験開始最新記事
参考・引用

3月6日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(海外)薬害エイズ関連血液供給タスクフォース、スクリーニング検査に反対最新記事

1983年12月、米国食品医薬品局(FDA/U.S. Food and Drug Administration)、米国疾病対策予防センター(CDC/U.S. Centers for Disease Control and Prevention)が血液サービス業界と行った会議で設置されたタスクフォースは、血漿のルーチンスクリーニングにB型肝炎の抗コア検査を組み込むことに反対する多数意見を含む報告書を発表した。

タスクフォースは、B型急性肝炎の症状発現時に現れ生涯持続するB型肝炎コア抗体(anti-HBc)のリスクが高いドナーがいる地域の血液銀行で実施された複数の試験的検査を検討した結果、B型肝炎コア抗体はHIV感染者によく見られることが示唆された。

データによると、B型肝炎コア抗体陽性の割合は、血液・血漿ドナーの5〜8%、同性愛男性の84%、静脈内薬物使用者の96%だった。

12月の血液製品諮問委員会(BPAC/Blood Products Advisory Committee)会議での議論では、「検査を使用するかどうかの決定には、費用便益分析と疾病の蔓延を考慮しなければならない」と規定されていた。

タスクフォースの見積もりでは、検査1回につき、血漿採取の場合には2.5ドル、全血採取の場合には12ドル必要であり、さらに廃棄される血液新たなドナーの募集にも費用がかかるということで、合意することができなかった。

ハイリスク・ドナーの代用として検査のコストと利益について、タスクフォースの意見が一致しなかったため、大多数はB型肝炎コア抗体のスクリーニング検査の採用に反対することを決定した。

引用・出典

3月30日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンセクシュアルマイノリティ関連人物米国にAIDSを持ち込んだと濡れ衣を着せられたガエタン・デュガ、死去特に大事な記事最新記事

メディアが最終的に北米で70万人以上を殺す伝染病を最初にアメリカに持ち込んで故意に広めた悪魔のような存在「ペイシェント・ゼロ(患者0号)」と誤って広められ、長年、中傷され続けたカナダ人のフライト・アテンダントのガエタン・ドュガが、ケベック市でエイズのために32歳で亡くなった。

1982年、社会学者ウイリアム・ダローと米国疾病予防管理センター(CDC)の共同研究者たちは、同性愛男性たちの間で爆発的流行を見せていたカポジ肉腫と呼ばれる皮膚がん症例について、ジョージア州からカリフォルニア州にわたって調査を行った。

ダローは、3つの異なる郡に住む3人の男性が性交渉の相手として挙げた人々の中に、共通する1人の男性、ガエタン・ドュガというフランス系カナダ人のフライト・アテンダントがいることが分かった。

1980年、ドゥガはカポジ肉腫と診断された。当時のLGBTQコミュニティでは、それは神秘的な「ゲイ癌」として知られていたが伝染性は認識されていなかった。

CDCの研究者は、ドュガがニューヨーク市にいることを突き止め、そこでカポジ肉腫の治療を受けていることがわかった。そしてドュガの協力により、HIVと性行為の決定的な関係が明らかになった。

CDCの研究者たちは、当初ドュガに、カリフォルニア州外部のエイズ発症者であることを示す「Out-of-California」の略語である「O(オー)」という分類記号を付けていたが、調査の過程で「0(ゼロ)」と読み違えられ、デュガは「ペイシェント・ゼロ(患者0号)」と呼ばれるようになった。

デュガの死から3年後の1987年、ジャーナリストのランディ・シルツは「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」を出版し、ベストセラーとなった。この本の中で、シルツはペイシェント・ゼロを、ロサンゼルスに家を持ち、多くの都市を旅行していたデュガと特定し、彼が米国で最初に知られたHIV感染拡大源であることをほのめかした。

メディアは大騒ぎになり、ジャーナリストと一般大衆は「HIVを米国に持ち込んだのはドュガ」であると誤解し、1980年代初頭にウイルスを撒き散らした「腸チフス・メアリー」の再来と評され、彼の家族とともに何年にもわたって中傷に苦しめられることになった。

彼の容疑は、2016年10月に科学雑誌Nature誌に、進化生物学者マイケル・ウォロビー博士によって発表された論文によって科学的に否定されるまで、待たなければならなかった。

ウォロビーのチームは、医療機関でB型肝炎検査のために採取された同性愛男性の血清試料のうち1978年と1979年のものについて2000以上を調べた。すると、サンフランシスコの3つ、ニューヨーク市の5つの試料に、HIVの塩基配列解読をするのに十分な遺伝的痕跡が見つかり、そのデータの結果からデュガはアメリカにおけるウイルスの感染源ではないと結論づけた。

研究チームがそれらの試料の遺伝子配列を詳細に調べたところ、1970年代初期のカリブ海地域、特にハイチで見られたHIVの株に類似していることが分かった。しかし、それらの株は互いに異なっており、このためHIVは1970年頃にはサンフランシスコとニューヨーク市ですでに広まっていて、流行の間に変異したことが示唆された。さらにウォロビーがドュガの血液を分析したところ、彼の死因となったHIV株とこれらの株との間に一致が見られないことが分かった。

ウイルスの遺伝子を辿る「家系図」では、ドゥガスは最初ではなく、真ん中に位置する。彼は、AIDSという病気が認識される前にすでに感染していた多くの患者の1人にすぎないということを、全ての証拠が示しているのです

1980年代の研究者たちはまだ、HIVに長い潜伏期間があることを知らなかった。HIVは発病までに平均して10年間、人体に潜伏している。AIDSと関連する症状が多様なことも診断を難しくしてきた。

デュガはCDCに対して、パートナーのネットワークを追跡する際に特に協力的で透明性があり、多くのパートナーの名前と住所を提供していた。また、他の人々が彼の特徴的な名前を覚えていたため、さらに拡大されたことも重要である。

米国国立アレルギー感染症研究所(NIAID:National Institute of Allergy and Infectious Diseases)の所長、アンソニー・ファウチ博士は、「さまざまな疾患の歴史の中で、その疾患の責任を、ある程度誰かに負わせることが必要とされてきたのです。」と語った。1980年代に、一般市民の怒りが同性愛の男性に向くのはひどく容易なことだった。特に「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」で、ドュガが故意に病気を広めたとほのめかされたことは、とりわけ破滅的だった。

ドュガスはそれでもまだ病気を広め続けていました」と彼のカポジ肉腫を治療したニューヨーク大学ランゴン医療センターの皮膚科医アルヴィン・フリードマン・キエン医師は当時を振り返る。「ドュガは、『ゲイのがん』を自分が広める可能性があるという確かな証拠はないことを引き合いに出し、病気が重くなり過ぎてできなくなるまで無防備な性行為を続けていました」。

多くの同性愛の男性たちは当時、無防備な性行為がHIVを広めるという考えに抵抗していたと、フリードマン・キエンは言う。

同性愛者たちはセックスの自由と、同性愛者として認められ受け入れられることを目標に闘ってきたので、彼らにとって、全ての同性愛男性がこの恐ろしい病気のキャリアーの可能性があると言われることは非常に耐えがたいことだったのです。

英国ケンブリッジ大学の歴史学者でウォロビーの研究の共著者でもあるリチャード・マッケイ博士は次のように語った。

今回の研究は、「ペイシェント・ゼロ」を特定することは科学的にも倫理的にも非常に困難だということを教えてくれました。ドュガの物語は、HIVが単に永遠の虚空の中で変異を続けるレトロウイルスではなかったことをはっきりと示しています

引用・出典

4月23日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(海外)米国保健福祉省のマーガレット・ヘックラー長官が国立がん研究所のギャロ博士のグループによりAIDSの原因ウイルスが分離されたと宣言特に大事な記事最新記事
記者会見を開くヘクラー長官とギャロ博士
記者会見を開くヘクラー長官とギャロ博士
(引用:"The day they discovered the AIDS virus" MSNBC)

まず第1に、AIDSの原因と思われるものが発見されました。第2に、その病原体が特定されただけではなく、このウイルスを大量に培養できる新しい製法が開発されました。第3には、ウイルスとこの新しい製法が発見されたことで、AIDSの血液検査が可能になったことである。血液検査によって、AIDS患者を実質的に100%確実に特定することができます。

米国保健社会福祉省のマーガレット・ヘクラー長官は、国立がん研究所のロバート・ギャロ博士と共に記者会見を開き、HTLV-IIIと名付けたレトロウイルスがAIDSの原因であることを突き止めたと発表した。ヘクラーはまた絶望的な国民に対し、HTLV-IIIを特定する診断用血液検査の開発を発表し、エイズに対するワクチンが2年以内に製造されることに期待を表明した。

急遽準備された彼女の記者会見は失態に満ちていた。報道機関のリークにより数週間早まったこと、一部フランスの発見であったものを米国の手柄と主張したこと、新たに発見されたウイルスの同定を誤ったこと、2年以内にワクチンができると予測したこと。しかし、この発表は画期的なインパクトを与えた。それは、やがて人類史上最悪の疫病のひとつになるであろうものの原因を明らかにし、今日もなお続いている科学的・社会的革命の火付け役となったのである。

ヘクラー長官の行動は、問題の多い政権を象徴している。2006年のPBSのインタビューで、彼女はレーガン大統領による支援について質問され、「これはお金で解決できる問題ではなく、科学者が解決できる問題でした。」と答えた。医学界の権威に肩入れするヘクラーは、この危機に対するレーガン政権の責任を回避していた。

1982年から1989年までのレーガン政権のエイズ対策について、C.エヴェレット・クープ軍医総監はインタビューで次のように語っている。

同性愛嫌悪の政権(homophobic administration)だったと言う人もいるが、それは間違いだと思います。ホモフォビアには恐怖という意味合いがある。これは恐怖ではなく、憎悪だった。

当時、原因はまだ謎に包まれており、無知が恐怖と偏見を煽っていた。サンフランシスコの警官はゲイから身を守るためにマスクと手袋を着用し始め、右派のコメンテーターは悩める人々を邪悪だと辱めている時代だった。

研究者らがエイズの原因を特定したという点では正しかったが、当時それはまだ明確ではなかった。この1年前にリュック・モンタニエ率いるフランスのグループは1年前にLAVと呼ばれるHTLV-IIIと同じウイルスをすでに発見しており、特許権をめぐり競合する主張は激しく対立し、1987年になってようやく両者の主張が整理され、1985年米国食品医薬品局が承認した血液検査法の特許権使用料と手柄を分かち合うことになった。

とはいえ、原因となるウイルスを分離し、信頼できる検査法を開発したことによって、研究者たちは突然、迷信から理性への道を切り開いたのである。ほとんど一夜にして、この発見によって科学者たちは、AIDSがどのように広がり、どのように広がらないのかを説明することができた。

そして、この発見によって豊かな国々は血液供給を確保し、病院での感染を減らすことができ、感染症を生存可能なものにした。最初の抗HIV薬は、AZTと呼ばれる失敗した抗がん剤であったが、1986年に市場に出回り、1996年までには3種類の薬物カクテルが、死の宣告を管理可能な慢性疾患に変えることができるようになった。

ただ、ワクチンはまだ実現していない。HIVは、感染した体内では毎日1,000億個もの自分の複製を、異常なエラーの多さで増殖させ、遺伝的に変異した可変ウイルスの群れを急速に作っていくため、どんな新薬を開発しても、すぐに効果を失ってしまう。

また、ウイルス、ましてやエイズウイルスのようなレトロウイルスのワクチンを作るのは非常に難しく、時間も費用もかかる。ウイルスは実験室での培養で増殖させ、体内の免疫系で異物を攻撃する分子である抗体を生成する製品を作るためにそのまま使用しなければならない。ワクチンが病気を引き起こさないことを確認するためには、ウイルスの弱毒株や死株を開発しなければならない。それが達成した後、動物実験を行い、エイズウイルスが実際に病気を引き起こすこと、そしてワクチンが安全に中和できることを示さなければならない。ワクチンが広く使われるようになるには、人間での実地試験が欠かせない。そのため、ワクチンの開発、特にAIDSのワクチンは非常に困難とされている。

参考・引用

5月4日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンギャロ博士が「サイエンス」にウイルス(HTLVⅢ)分離の論文特に大事な記事最新記事
ギャロ博士
ロバート・ギャロ博士
(引用:"How the discovery of HIV led to a transatlantic research war" PBS New Hour)

4月23日にマーガレット・ヘクラー長官と記者会見を行った国立がん研究所のロバート・ギャロ博士は、科学雑誌サイエンス誌に、HTLV-IIIと呼ばれるレトロウイルスを特定する4本の論文を発表し、後天性免疫不全症候群の原因としてこれを正確に特定した。。

論文の中で、ギャロは研究室でこのウイルスを大量に増殖させたと主張している。しかし、そのわずか1年前の1983年5月20日、パリのパスツール研究所にいたフランスのウイルス学者リュック・モンタニエと彼のチームは、エイズ患者から分離したリンパ腺症関連ウイルス(LAV)と呼ばれるレトロウイルスを特定する論文をScience誌に発表していた。

ギャロの論文が発表された直後、DNA分析によってアメリカのHTLV-IIIウイルスとフランスのLAVウイルスが同じであることが証明された。その後、ギャロが何らかの悪意ある手段でモンタニエ・ウイルスを入手し、自分のウイルスとして使用したのではないかという疑惑が囁かれるようになった。

米国国立衛生研究所(NIH/National Institute of Health)には、開発した抗体検査によって莫大な経済的な報酬が期待できた。しかし、この検査の特許権について、米国保健福祉省(ギャロ)か、フランスのパスツール研究所(モンタニエ)か、あるいはその両方かということについて、長い争いが始まった。

臨床HIV検査に関する米国保健福祉省の特許に異議を唱えるため、パスツール研究所は1985年12月に訴訟を起こした。この泥沼の争いは1987年、ロナルド・レーガン大統領とフランソワ・ミッテラン仏大統領によって、すべてのHIV研究とそれを検出した血液検査から得られる科学的信用と特許使用料を分割するという正式な合意がなされ、最終的に収束した。

国立衛生研究所(NIH)は調査を実施し、ガロの不正行為の容疑を晴らすとともに、ガロと彼の同僚が自分たちの研究から多くのHIV分離株を持っていたことを証明した。しかし、この公式報告書には大きな疑問があった。

ガロ研究所の1983年から1985年までのウイルス保管庫から発見されたサンプルの一つは、モンタニエの研究室からのものであった。このサンプルには2つのウイルスが含まれ、ある患者のウイルスが別の患者のウイルスサンプルに混入していたものだった。したがって、モンタニエ研究所が送り、ガロ研究所が調査したサンプルは、実際にはプール培養であった。ガロ研究室は、その画期的な研究でモンタニエのサンプルをうっかり使ってしまったことを認めた。

その後、ガロとモンタニエは、ウイルスの共同発見者という肩書きを共有することに同意し、サイエンス誌(2002年12月29日号)とNew England Journal of Medicine誌(2003年12月11日号)に、自分たちの研究を記述したいくつかの論文を共同で執筆した。

ギャロはこの共同研究に対して、1986年には、1982年にレトロウイルスの研究で受賞して以来2度めとなる栄誉あるラスカー賞を受賞した。その後、アメリカ中の病院や研究所で、ストックホルムからノーベル生理学・医学賞の受賞の電話がかかってくる日もそう遠くはないだろうというざわめきが起こった。

しかし、2008年秋、ノーベル委員会からはリュック・モンタニエにだけしか声がかからなかった。ノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、パスツール研究所でHIVの研究を共にしたフランソワーズ・バレ=シヌシや、ヒトパピローマウイルス(HPV)の発見者であるハラルド・ズール・ハウゼンの3名だけだった。

科学界はノーベル委員会がガロの研究を否定したことを知り、衝撃を受けたが、その記録は2058年まで封印されているため、私たちの多くがこの世を去るまで、この決定の背後にある正確な論拠を知ることはできない。ある者は、ギャロがどのようにしてウイルスサンプルを入手したかという論争が、賞委員会を反発させたのではないかと推測し、またある者は、より皮肉なことに、人気投票であり、ギャロは賞を与える権力を持つ人々から嫌われていたのだと述べている。

モンタニエがノーベル賞を受賞したときに次のように語った。

HIVがエイズの原因であることを証明することは非常に重要であり、ギャロはそのために非常に重要な役割を果たした。ロバート・ギャロには大変申し訳なく思っている。

歴史という広い視野で見れば、ギャロの科学と社会に対する偉大な貢献は、いかなるスキャンダルも凌駕していると言えよう。

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6月4日

海外での出来事人物セクシュアルマイノリティ関連フランスの哲学者ミシェル・フーコー死去最新記事
1974年のフーコー
1974年のミシェル・フーコー(ウィキペディア)

第二次世界大戦後、最も影響力があり、物議を醸した学者の一人であり、哲学者で、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家でもあったフランスのミシェル・フーコーAIDS関連疾患のため57歳で死去。

その翌日、フランスの新聞リベラシオン紙は、フーコーの死因はAIDSだという噂を死亡記事に掲載する。これに対し、ル・モンド紙は遺族の許可を得て、HIV/AIDSには一切触れない医学会報を発行した。

6月29日、フーコーの棺が病院の死体安置所からヴァンドゥーブル・デュ・ポワトゥーの墓地まで運ばれ埋葬された。活動家や学者の友人など数百人が参列し、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズフーコーの画期的な著作『性の歴史』からの抜粋を含む弔事を行った。

医師の息子であり孫でもあるフーコーは、ブルジョワの家庭に生まれた。1946年、20歳でパリの高等師範学校に入学し、細心で聡明、そしてエキセントリックな学生として評判を確立した。

1952年の卒業後、フーコーはヨーロッパを旅し、自身の著作をまとめた単行本を出版し、1969年には『知の考古学』(L'Archeologie du savoir)を出版し、当時の最も独創的で物議をかもす思想家の1人として注目を集めた。

その1年後、彼はフランスで最も権威のある高等教育機関であるカレッジ・ド・フランスの主任教授に任命され、集中的な研究を開始し、1971年から1984年にかけて、フーコーは『規律と処罰-監獄の誕生』(1975年)、3巻に及ぶ『性の歴史』など、多数のエッセイなどの著作を残した。

フーコーは広く旅を続け、その名声が高まるにつれて、ブラジル、日本、イタリア、カナダ、アメリカに長期滞在した。サンフランシスコには特に愛着があり、カリフォルニア大学バークレー校の客員講師を数年間務めた。

フーコーは「同性愛者」というレッテルを軽蔑していたとされるが、同性愛者であることを公言し、サドマゾヒズムや浴場の快楽を称賛することもあった。フーコーは『性の歴史』の第4巻を執筆中に死去。

フーコーのパートナーであったダニエル・デフェールは、その後、フランスで最初のHIV/AIDS団体「AIDES」を設立する。AIDESは、フランス語の「help」(aide)と英語のAIDSの頭文字をとったものである。フーコーの死から2年後の1986年、デフェールはフーコーの死がエイズに関連したものであることを公に発表した。

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8月15日

海外での出来事市民運動など民間の動きセクシュアルマイノリティ関連人物初期のAIDS活動家ボビー・キャンベル死去最新記事特に大事な記事

AIDS活動家のボビー・キャンベルがサンフランシスコでAIDS関連の病気により32歳で死去した。

そのわずか1カ月前、キャンベルはサンフランシスコで開催された1984年の民主党全国大会の「レズビアンとゲイの権利のための全国行進」で演説していた。

キャンベルは、『ニューズウィーク』誌の表紙を飾ったボーイフレンドと抱き合い、「アメリカ中部にゲイの愛は美しいということを示すため」と観客に語った。彼は、その時点でAIDSで亡くなった2,000人のために、そして「これが終わる前にAIDSで亡くなる人のために、15秒間の黙祷を捧げた。

そして、政治家が取り組むべき一連の懸念事項、研究と支援サービスの両方に対する資金提供の増加、HTLV-III(現在HIVとして知られている)の検査法の登場による差別の可能性への警告などを提示し、次期選挙に立候補するすべての候補者に対し、AIDS患者と面会するよう訴えた。

民主党全国大会でのスピーチの2週間後、キャンベルはダン・ラザーとともにCBSイブニング・ニュースに出演した。AIDSの噂と恐怖は多くの聴衆に届いていたが、正しい情報は伝わっていなかったために、キャンベルはガラス張りのブースに入れられ、技術者たちはインタビュー用のマイクの配線をするために彼に近づくことを拒否した。

1984年8月15日正午、民主党全国大会演説からちょうど1ヵ月後、集中治療室で2日間生命維持装置につながれた後、ボビー・キャンベルは両親とパートナーのボビー・ヒリアードに見守れなながらサンフランシスコ総合病院で息を引き取った。ボビー・キャンベルは32歳で、当時AIDSと呼ばれていた病気と3年半以上闘っていた。

ボビーがこの世を去った2日後、カストロ・ストリートは彼の死を悼み、彼の人生を祝福し、人間の尊厳に対する彼の偉大な貢献を称えるために人々が集まるために閉鎖された。2014年、カストロ・ストリートのヒストリー・ウォークのプレートは、彼と、彼が "カストロ・ストリート498番地にあるスター薬局の窓に「ゲイの癌」に関する最初の告知を掲示した日 "を記念したものだった。2021年、彼はサンフランシスコのレインボー・オナー・ウォークの表彰者に選ばれた。

パートナーのボビー・ヒリアードも、ほどなくしてこの致命的な病に倒れてしまう。

NEWSWEEK紙の表紙に掲載されたボビー・キャンベル(左)と恋人のボビー・ヒリアード
NEWSWEEK紙の表紙に掲載されたボビー・キャンベル(左)と恋人のボビー・ヒリアード
(引用:"Bobbie Campbell" WikipediA
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9月4日

研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)AIDSの実態把握に関する研究班解散、AIDS調査検討委員会発足最新記事
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10月9日

海外での出来事報道・マスコミの対応ニューヨーク・タイムズ紙、唾液でのAIDS感染を示唆する誤報記事最新記事

ニューヨーク・タイムズ紙は、新しい科学的証拠により、AIDSが唾液を介して感染する可能性が高まったと報じている。この記事が誤りであることが分かるのは、まだ2年ほど先になる。

ヒトおよび動物実験に基づくこの証拠は、唾液が関係していることを示唆するに過ぎない。しかし、研究者たちはインタビューの中で、この研究は公衆衛生上の懸念があることを確信していると語った。

しかし、当時の個の時点で、公衆衛生当局に報告された6,000件以上のAIDS症例のうち、唾液からの感染が直接の原因とされたものはない。

研究はヒトと動物の両方で行なわれ、AIDSにつながる主な危険因子として、性的接触、血液や血液製剤の輸血が指摘されている。AIDS研究の第一人者であるロバート・C・ギャロ博士はニューヨーク・タイムズ紙に唾液がAIDSの主要な感染経路ではないと語っている。

研究はヒトと動物の両方で行なわれ、AIDSにつながる主な危険因子として、性的接触、血液や血液製剤の輸血が指摘されている。AIDS研究の第一人者であるロバート・C・ギャロ博士はニューヨーク・タイムズ紙に唾液がAIDSの主要な感染経路ではないと語っている。

唾液によってウイルスが感染してAIDSを引き起こすという明確な疫学的証拠はまだない。唾液が重要な感染手段であるかどうかという疑問は残っています。しかし、唾液がヒトにおけるAIDSの主要な感染経路であるとは思いません。

それでもこの記事は人々に恐怖を与え、AIDS患者への偏見と差別をさらに助長した。

AIDS研究、唾液による感染の可能性を示唆(ニューヨーク・タイムズの記事より)

後天性免疫不全症候群(AIDS)が唾液を介して感染する可能性が、新たな科学的証拠によって浮上した。

ヒトおよび動物実験に基づくこの証拠は、唾液が関係していることを示唆するに過ぎない。しかし、研究者たちは昨日のインタビューで、この研究結果は公衆衛生上の重大な問題を提起していると確信していると語った。

しかし、これまでのところ、公衆衛生当局に報告された6,000件以上のAIDS症例のうち、唾液からの感染が直接の原因とされたものはない。研究は人間と動物の両方で行なわれている。

これまでの疫学研究では、AIDSにつながる主な危険因子として、性的接触、血液や血液製剤の輸血が指摘されている。

エイズ研究の第一人者であるロバート・C・ギャロ博士は、『今現在の疫学調査では、唾液がエイズの主要な感染経路であるとは指摘されていません。唾液によってウイルスが感染してエイズを引き起こすという明確な疫学的証拠はまだない。唾液が重要な感染手段であるかどうか、疑問が残ります。しかし、唾液がヒトにおけるエイズの主要な感染経路であるとは思いません』と語っている。

ガロ博士は、『ウイルスが突然あちこちに蔓延したとは考えていない』、『警戒心は持ちたくない』と述べた。しかし、彼はまた、『過小評価されることは望んでいないし、事実に対処しなければならない』とも言った。

人間の患者を対象とした研究は、ボストンのニューイングランド・ディーコネス病院のジェローム・E・グループマン博士と、マサチューセッツ州ベセスダの国立癌研究所のギャロ博士らによって続けられた。彼らは、いわゆるAIDS予備軍、あるいはAIDS患者と接触したことのある18人のうち8人の唾液から、HTLV-IIIと呼ばれるAIDSの原因と広く信じられているウイルスを発見した。しかし、20人のAIDS患者の唾液からはウイルスは検出されなかった。

この研究報告はサイエンス誌の1984年10月26日号に掲載される予定だが、一部が報道された後、前日のギャロ博士への電話インタビューで研究報告内容が詳しく説明された。

カリフォルニア大学デービス校カリフォルニア霊長類研究センターで行なわれた動物実験によると、咬んだり引っ掻いたりするサルに感染するヒトのAIDSに似たウイルスの主な経路が唾液であることが判明した。シミアンAIDSウイルスは、カリフォルニアの施設の一つのケージにいるサルの最大20%の唾液から検出された。

SAIDSウイルスと呼ばれるシミアンAIDSウイルスは、ヒトのAIDSを引き起こすHTLV-IIIウイルスと同じレトロウイルスのグループに属しているが、両者には重要な違いがある。研究者たちは、ヒトのAIDSを研究するモデルとして、サルのシミアンAIDSウイルスやネコのネコ白血病ウイルスを研究した。

病理学者でデービスの研究チームのメンバーであるマレイ・ガードナー博士は電話インタビューで、『SAIDSを持つ多くの動物は唾液中にウイルスを持っている』と語った。

ガードナー博士によれば、彼の同僚は1976年から少なくとも12例のSAIDS症例を、SAIDSウイルスのキャリアである一見健康な1匹のサルにまで遡らせたという。

このサルはどこに行っても、動物と直接接触しても、病気は高い確立でこのサルと一緒に移動した』と、デービスの施設のケージ内のサルの動きを指さしながらガードナー博士は言った。

ガードナー博士はまた、彼のチームがキャリアから採取した唾液からSAIDSウイルスを分離し、それを健康なサルに注射したところ、そのサルがSAIDSに罹った、と語った。

『ウイルスはそこに存在するだけでなく、病気を引き起こすようです』とガードナー博士は言う。『なぜキャリアサルは発病しないのか、これもまた未解決の問題であるが、どのような感染症にも必ずこのような健康なキャリアが存在する』。

ガードナー博士はまた、『健康な保菌者が病原性SAIDSウイルスを感染させることができ、健康な保菌者がウイルスを伝播させる主要な経路である可能性があると確信している』と述べた。

ガードナー博士は、サルで発見された唾液中のエイズウイルスの感染について、『公衆衛生上の危険があると推測される。おそらく汚染された唾液に何度もさらされることになるでしょう。一晩で感染することはないでしょうし、一回の飲み物やキスで感染することもないでしょう。しかし、十分な量のウイルスにさらされれば、感染の可能性は高まります。間違いなく、これは公衆衛生上の大きな懸念事項です』。

ガードナー博士は、人間の唾液でも同様に考えるのは理にかなっているし、チューリッヒとサンフランシスコの科学会議でSAIDSウイルスに関するデータを発表し、ギャロ博士とこの発見について議論したと語った。

ギャロ博士は唾液中のエイズウイルスの発見を『驚くべきこと』と呼んだ。

参考・引用

10月10日

海外での出来事国や政府の対応(海外)セクシュアルマイノリティ関連サンフランシスコ市が14の浴場を閉鎖最新記事

サンフランシスコ市は、危険性の高い性行為が行われているとの報告を受け、14軒のバスハウスの閉鎖を命じた。

バスハウス(浴場=ゲイのハッテン場)がエイズ蔓延を助長していることは立証されており、閉鎖されるべきだ」とダイアン・ファインスタイン市長は述べた。

同性愛者が市の成人人口の5分の1と推定されることもあるサンフランシスコでは、これは異例のことだった。大々的に報道されたサンフランシスコ調査官による無作為電話世論調査では、回答者の市民の79%がバスハウスは閉鎖すべきだと考えていることが判明。

ファインスタイン市長は、2年にわたる浴場閉鎖キャンペーンを妨害する同性愛者権利団体に苛立ち、浴場をひとつずつ閉鎖するという別の方法を選んだ。市長の指示のもと、市は民間調査員を雇い、ゲイ・コミュニティが利用することで知られる浴場やその他の場所におとり捜査をさせ、安全でないと思われる性行為について報告させた。

ゲイ向け浴場チェーンの共同経営者デイビッド・クレイトン氏は、「彼は本当に、ゲイの人々が入る個々の部屋に入るつもりだと言うのだろうか。保健検査官が個々のドアを開けて、そこに誰がいて、何をしているのかを確認するような権利を有するとは到底思えない。」と語っている。

ランディ・シルツの著書「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」によれば、市の公衆衛生局長であるマーヴィン・シルバーマン医師は、このような手口を認めなかったが、調査員がこれらの場で行われている性行為の種類を列挙した85ページの報告書を提出したとき、彼は対応せざるを得ないと感じたという。

シルバーマン医師は、AIDSは体液交換を伴う性的接触によって感染すると研究者らは考えているため、サンフランシスコ市自体が感染すると発表し、私有のゲイ浴場での性的接触を禁止するために「個人間の性行為」を許可した浴場は免許を剥奪される可能性があるとし、同性愛者の男性が出会い目的で時々訪れる私設のクラブや書店での性行為を禁止するために、市は未決定ではあるが同様の手順を講じるだろうと述べた。

そして、10月10日の記者会見シルバーマン医師は、報告書でゲイが安全でないセックスをする場所として指摘された浴場やその他いくつかの施設の閉鎖を命じ、その名前を挙げて「病気と死を助長している。」と述べた。

ベイエリア・レポーターは編集者に手紙でこう述べている

結局のところ、サンフランシスコは国民に『我々はエイズの治療法を発見した。同性愛を禁止せよ』と告げることになるだろう。それをやっている間に、成人の性的同意に関する法律を廃止してはいかがだろうか。同性愛者バッシングや道徳的逮捕が再び起こるだろう。

なぜバスハウスがこれほどまでに激しい議論の焦点となったのは、1970年代から80年代にかけてのゲイ・コミュニティにとって、バスハウスは何十年もの社会的進化を経て確立された場所だったからだ。

ワシントン・ポスト紙『銭湯戦争(The Bathhouse War)』で、バスハウスは入浴するためのものではないことを最初に認識する必要がある。スチームルームやサウナ、ジャグジーやプールがある豪華な施設もあるが、男たちが薄暗いサンフランシスコのバスハウスのロッカーや小さな個室に5ドルや10ドルを払うのはそのためではない。男たちは、他の男たちと出会い、医学用語で言うところの『複数回の匿名での性的接触』をするために利用する。

ゲイ向けバスハウスの存在意義は、ほとんどの異性愛者の生活上、何の類似点もない。もちろん異性愛者のセックスクラブや売春施設は確かに存在するが、それらには文化的な象徴性は無く、守るべき施設とされている訳ではない。

この対立は、ほとんどのサンフランシスコ住民も知らない少数の施設の営業許可以上に、病気や清潔さの基準、性行為の意味についてのものだった。このことは多くの異性愛者にとり非常に異質で不安を引き起こすため、ある種の集団戦慄を起こす。ゲイ向けバスハウスの話題になると、「どうして風呂に入りに行くのをやめられないのか」と、同性愛者と異性愛者の間の亀裂は手の施しようがないほど広がった。

しかし、多くのゲイにとって1980年代のバスハウスはそれ以上の存在だった。そこは避難所だったという。

サンフランシスコの歴史家アラン・ベルーブはポスト紙に語った。

私たちはそこに入るためにお金を払っていましたし、時にはそれが高すぎることもありましたが、私たちはセックスのためだけにお金を払っていた訳ではありません。私たちはその領域に入るためにお金を払っていたのです。そこは途方もない象徴的な意味を持っています。

同性愛者は、脅迫されたり、殺害されたり、公衆に晒されるなどの迫害に遭う恐れがあります。ゲイ向けバスハウスはまさに避難所というべきものです。批判主義や道徳主義からの避難所です。

異性愛者の世界に点在する、同性愛者同士の控えめな口コミで知られている場所は、同性愛者が安全に出会える場、それがゲイバーとバスハウスだったのです。

論争が最初に勃発したのはサンフランシスコだった。その後、ニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミ、シカゴ、シアトル、ポートランドが続き、全国に広がった。地域の政策アプローチは市全体のすべての入浴施設の閉鎖から、保健機関と地域住民の協力による利用者への教育と予防策の導入まで多岐にわたる。

バスハウスやセックス・クラブがエイズ蔓延の原因とする論争は、サンフランシスコに限ったことではなかった。ゲイの人口が多い大都市はどこもこの問題に頭を悩ませていた。ゲイ・コミュニティ内でも、公衆衛生とゲイの市民的自由のどちらが重要かをめぐって、メンバー同士が議論を戦わせた。

この20年間、同性愛者たちをこれほどまでに感情的な対立を生んだ公的問題が起きなかったのは、その存在意義のためだという。

1984年、ベルーブは、バスハウスの社会的および文化的重要性に関する証拠を提供する歴史準備書面カリフォルニア州高等裁判所に提出した。彼はまた、AIDS予防について地域社会を教育するためにバスハウスが果たせる潜在的な役割についても述べた。

AIDSの出現が多くの同性愛者男性の性行動を明らかに変えたにもかかわらず、バスハウスに頻繁に出入りする人々が危険な種類の性行為をする可能性が最も高いことは明らかだった。そうではないと彼らを説得するのは困難だったとベルーブ氏は語る。

答えはもっと教育し、よりよく提示された教育だ。病気を広めない性的行為のためにバスハウスを使うべきだ。

「伝統的に、選挙、大会、オリンピック、万国博覧会の前には都市が清掃される。その伝統的なターゲットは、売春婦、アル中、ギャンブラー、同性愛者、つまり都市の性的地下グループだ。これが無関係であるとは考えにくい。」

カストロストリートに近い場所で小さなギフトショップを営むゲイのトム・ドイル氏は、AIDSによって最終的に追い出されるまで、バスハウスで性的快楽を求めていたという。13年前にサンフランシスコに移り住んだ頃、最初はとても不安を感じながらバスハウスを訪れたときのことを回想して語った。

それらは暗く、通りから外れ、隠れていて、常に閉鎖される恐れがありました。そして、バスハウスが襲撃されるのはいつも選挙の時期だった。

良いことなのか悪いことなのかは分からないが、彼らはセックスを愛から切り離し、セックスを関係への序曲としてではなく楽しみとして区別することができたんだ。そして、バスハウスはそれを確認できる場所でした。人々はセックスをしたいからそこに行きました。愛がある必要はなかったんです。

自由には常に責任が伴います。選択の自由のために私は戦います。突き詰めれば、バスハウスは単なる施設です。ただの場所であり、閉鎖することは意味がありません。

ドイル氏にとって、その種のセックスに耽る自由は自分自身の意識にとって非常に重要であるため、バスハウスへの政府の介入は愚かであると同時に抑圧的であると考えている。 もちろん、彼はこの議論が多くの異性愛者たちをどれほど焦らせているかを知っている。

もしAIDSが同性愛者コミュニティではなく異性愛者のコミュニティを襲ったとしたら、そこに性感染症が蔓延していたら、異性愛者の反応はどうなるだろうか知りたいです。

彼らはどうやってそれを阻止するつもりですか?あなたは異性愛者全員にこう尋ねるつもりです。セックスはやめませんか?

閉鎖命令が出てから6時間以内に2件が営業を再開、さらに10件が24時間以内に営業を再開した。

この歴史的概要は、1996年に学者・活動家グループのDangerous Bedfellowsによって編集された『Policeing Public Sex』誌に掲載された。

参考・引用

タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアルマイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。