HIV/AIDSの歴史
1984年

ウイルス発見

1984年

1月5日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連報道・マスコミの対応AIDS発病前の男性血友病患者から妻への二次感染の事例を報道最新記事

昨日(1月4日)、後天性免疫不全症候群(AIDS)は、外見上病気の症状が現れる前でも異性愛者の間で広がり、伝染する可能性があるという新たな証拠が報告された。

これまでのAIDS感染の異性愛例には、男性の薬物乱用者やバイセクシュアルの女性の性的パートナーが関与していたが、マイアミ大学とアトランタ疾病管理センターの医師チームの新たな報告には、血友病患者から妻への感染と考えられる症例の報告があったと述べた。。

The Annals of Internal Medicine(内科学年報)誌の1月号に掲載されたこの報告書には、これまでに報告された中で、結婚50年を迎えた70代のフロリダの夫婦の最も珍しいAIDSの2例が含まれていた。この症例にはこの病気の最年長の犠牲者2人が関与しており、医師らはどちらの場合も夫の解剖によって診断した。

夫は前年の1983年1月に明らかなAIDSの症状を発症し、5月に亡くなった。彼は、過剰な出血を防ぐために服用した第VIII因子として知られる血液製剤の注射によってこの病気に感染したと考えられている。

研究者らは、妻が夫からこの病気に感染し、さらにその1年前の1982年1月に発症したと考えている。報道の時点で彼女は生きていたが、依然としてAIDSに苦しんでいた。

この場合、妻はこの病気のリスクがあると考えられるグループには含まれなかったため、マイアミ大学のアーサー・E・ピッチェニク博士率いる研究者らは、妻はおそらく性交を通じて夫からこの病気に感染したと結論付けた。

は、第VIII因子血液製剤の注射によりAIDSを発症したと考えられる血友病患者21人のうちの1人だった。夫婦はお互いにのみ性交をしたと述べた。「私たちは、彼女の唯一の明白な危険因子は、夫との2~3か月に1回の性交であると判断しました」と研究者らは述べた。

ピッチェニク博士のチームは、「頻繁な性的接触や複数の性的パートナーだけが感染の発生条件ではない」とし、「そして、この症候群は適当な危険因子があれば高齢者でも発生する可能性があり、若年層に限定してはいけない」と警告した。

1982年1月、妻は真菌感染症であるカンジダ症を発症した。彼女はまた、爪の真菌感染症と倦怠感を発症。カンジダ症は薬物治療に反応したが、治療を中止すると再発した。1983年1月、彼女は下痢の症状が出始めたが、当時、AIDSは診断として考慮されていなかった

ほぼ同じ頃、夫も発熱、咳、倦怠感、進行性の衰弱、体重減少を伴う症状が出始めた。彼は4月にフロリダ州の病院に入院したが、原因は特定されず、AIDSとの診断も下されないまま、肺炎により3週間後に亡くなった。

しかし、解剖の結果、ニューモシスチス・カリニという微生物による肺炎で死亡したことが判明した。この微生物はAIDS患者に大きな影響を与えるが、AIDS患者以外にはほとんど影響がない。したがって、患者が他の病気も患っていたことを考慮すると、この時に初めてAIDSと診断された。

6月、妻は発熱、咳、息切れのためフロリダの別の病院に入院した。肺炎も発症し、カリニ肺炎であることが判明した。検査の結果、妻はAIDSに見られるようなTリンパ球の異常があることがわかった。

アトランタ疾病管理センターの疫学者らも調査に参加し、血友病患者の性的パートナーがAIDSを発症したというこれまでの報告がなかったため、妻がどのようにしてAIDSに感染したのかを解明する手がかりを求めて調査に参加した。

調査では、妻は違法薬物の使用を否定し、夫の血友病治療薬として第VIII因子を注射したこともないと否定した。彼女は輸血も受けておらず、夫の治療に使用された針を自分に刺したこともなく、歯ブラシやかみそりを夫と共用もしていなかった。また、彼女は、同性愛者または両性愛者の男性、静脈内薬物乱用者、血友病患者、ハイチから最近移民した人などリスクグループの誰とも接触していなかったことなどから、疫学者はこの病気の従来の感染経路をすべて排除しなければならなかった。

また、妻が未知の感染源を通じて初めてエイズを発症し、夫に感染した可能性は理論的にはあり得るが、その可能性は非常に低いと述べた。

参考・引用

1月6日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連セクシュアルマイノリティ関連CDCが1983年末までの米国でのAIDSの状況を発表最新記事

米国の医師と保健局は、1983年12月19日時点でのAIDSの調査定義を満たす3,000人の患者の状況を報告した。

報告によると、3,000人のうちの51%はニューモシスティス・カリニ肺炎のみ、26%はカポジ肉腫のみ、カポジ肉腫とニューモシスチス。カリニ肺炎の両方を患っていたのは7%、そのどちらもないが日和見感染症だったのが16%だった。

また、報告された患者のうち、1,283人(43%)はすでに死亡し、カポジ肉腫けで死亡した患者は、他のAIDS患者(50%)の半分未満の23%だった。

患者の年齢は、90%が20歳から49歳で、59%は白人、26%は黒人、14%はヒスパニック系の人々。女性は7%だった。

AIDSは1981年の春に初めて報告されたが、AIDSの監視定義を満たす診断を受けた患者はそれ以前に発見されていた。報告された3,000人のAIDS患者のうち半数は、1983年2月以降にAIDSと診断されている。

米国全土とコロンビア特別区、プエルトリコから症例が報告されている。患者の81%は発症時にニューヨーク、カリフォルニア、フロリダ、またはニュージャージーの居住者であった。これらの州では、ほとんどの症例が大都市の住民の間で報告されており、最も多くの症例が報告されている標準的な大都市統計地域は、ニューヨーク市(全AIDS患者の42%)、サンフランシスコ(12%)、ロサンゼルス(8%)、マイアミ(4%)、およびニューアーク(3%)。

AIDS罹患リスクが最も高いグループは、引き続き同性愛者および両性愛者の男性(症例の71%)静脈内薬物乱用者(17%)である。患者の12%は他の危険因子または未知の危険因子を持っていた。これらには、ハイチで生まれ現在米国に住んでいる人(症例全体の5%)、血友病患者(1%)、AIDS感染リスクが高い人との異性間接触(1%)輸血を受けている人(1%)。

輸血関連AIDS患者31人には、他にAIDSの危険因子が知られておらず、発病から5年以内に血液または血液成分の輸血を受けた男性18人、女性13人が含まれている。これらの患者は1978年4月から1983年5月までの間に輸血を受け、12人が死亡したことが判明している。

3,000件の症例報告では小児AIDSの暫定症例定義を満たす5歳未満の小児42人が含まれてはいなかった。42人全員が生命を脅かす日和見感染症を患っており、2人にはカポジ肉腫もあった。29人(69%)が死亡していた。

このうち29人の子供は、両親の一方または両方に静脈内薬物乱用の履歴がある家庭(子供17人)、またはハイチ生まれ(子供12人)の出身だった。29人の子供のうち、以前に報告された1人(5人)を含む3人は、親(母親2人、父親1人)がAIDSを患っていた。他の13人の子供のうち、7人は発病前に血液または血液成分の輸血を受けていた。これらの子供たちのうちの1人は、AIDSで死亡した男性から血小板の輸血を受けていたと、州および準州の疫学者によって報告されている。

1983年下半期のAIDSと診断された症例の増加率は以前よりも低下しているようだが、報告されたAIDS発生率の傾向は慎重に解釈する必要があった。たとえば、AIDS患者の診断とCDCでの症例報告の受領の間には、多くの場合数か月かかるため、報告された症例数は実際の病気の発生率との時差がある。

また、過去1年間、AIDS報告は分散化されていた。ほとんどの症例は州および地方保健局に報告され、そこからCDCに報告が送られるようになっていた。したがって、1983年後半のエイズ発生率の傾向を最終的に解釈するには、さらに数か月かかることになった。

参考・引用

1月18日

三井有明鉱火災事故

三井有明鉱火災事故は、1984年(昭和59年)1月18日、福岡県三池郡高田町(現・みやま市)の三井三池炭鉱有明鉱において発生した坑内火災。死者83人、負傷者13名。翌年の三菱南大夕張炭鉱(北海道)爆発事故とともに、日本における最後期の大規模な坑内火災災害となった。

参考・引用

1月19日

「週刊文春」、1981年ロサンゼルスでの強盗事件の被害者に対する『疑惑』を報道

1981年から1982年にかけて、ロサンゼルスで起こった銃殺・傷害事件に関して三浦和義にかけられた一連の疑惑の始まり。報道の過熱化(被疑者に対する人権侵害)や一事不再理の原則などの問題を投げかけた。

「ロス疑惑」、「三浦事件」、「三浦和義事件」、「疑惑の銃弾事件」などと呼ばれた。

参考・引用

1月24日

アップル社がマッキントッシュを発売

米アップル社が、後にスマートフォンで世界を席巻するアップルを、世界的なIT企業に押し上げた大ヒット商品、パソコン「Macintosh(マッキントッシュ)」を発売。

日本では1984年4月12日に発売され、現在も「マック」の愛称で親しまれている。CPUは8Mb、メモリは128Kbと現在のパソコンから見ると足元にも及ばないが、当時としては十分とされる性能だった。

ヒットの理由は、2495ドル(日本円で約70万円)という低価格。さらに、グラフィック処理機能を充実させ、技術関係者のニーズにも応えた。この時からアップル製品はグラフィックに強いというイメージが消費者の間に浸透し、アップルも単純な高機能化競争とは一線を画すモノ作りの社風を醸成していくことになった。

参考・引用

2月

日本での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連国内で加熱第Ⅷ因子製剤の治験開始

参考・引用

2月8日

第14回冬季オリンピック、サラエボ大会開幕

1984年(昭和59年)2月8日から2月19日までユーゴスラビア社会主義連邦共和国(現:ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボで行われた冬季オリンピック。

日本選手は69名が参加。スピードスケート男子で北沢欣浩選手が銀メダルを獲得。

社会主義国でオリンピックが開催されるのは1980年のモスクワ大会以来であり、冬季オリンピックでは初の開催であった。規定の変更により、入賞枠が6位から8位までに拡大された初の冬季オリンピック大会となった。

参考・引用

2月12日

植村直己、マッキンリーの冬季単独登頂に世界で初めて成功

エベレスト、モンブランやマッターホルン、キリマンジャロなど世界の高山に単独登頂し、世界で初めて北極点に犬ぞりで単独到達など、数々の冒険を成功させてきた植村直己氏が、念願だった厳冬期のマッキンレーの単独登頂に世界で初めて成功した。

しかし、登頂成功を伝える無線を最後に消息が途絶えた。

数々の功績により、歴代4人目の国民栄誉賞を受賞し、グリーンランド南端の山が「植村峰」と命名されている。

参考・引用

2月13日

泰州ちゃん誘拐事件

広島県福山市で起こった、営利目的の誘拐事件。

当時、講演会メンバーとなっていた市議議員の息子であり、自身が指導している少年野球のメンバーだった泰州ちゃんを、小学校からの下校中に「バレンタインデーのチョコレートを買ってあげる」と誘い出し、車で連れ回し、「家に帰りたい」と訴えだした泰州ちゃんを福山市郊外の山中で殺害し、死体を遺棄。

殺害後、泰州ちゃんの自宅に身代金を要求する電話を数回かけたが、捜査員の逆探知によって緊急配備され、身柄を確保された。

裁判では犯人が信用している児童を騙し誘拐したうえに殺害後に身代金を要求し成功しているなど、犯行態度が極めて悪質であるとして一審の広島地方裁判所福山支部は1985年(昭和60年)7月17日に死刑を言い渡した。その後、Tは控訴・上告したが、1986年(昭和61年)10月21日に広島高裁で控訴が、1991年(平成3年)6月11日に最高裁で上告がそれぞれ棄却され、死刑が確定。Tは拘置中に死刑囚と支援者の集まりである「日本死刑囚会議・麦の会」に加わり、1986年(昭和61年)、同会に手記を寄せている。1998年(平成10年)11月19日に広島拘置所において刑が執行された。

参考・引用

3月6日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(海外)薬害エイズ関連血液供給タスクフォース、スクリーニング検査に反対

1983年12月、米国食品医薬品局(FDA/U.S. Food and Drug Administration)、米国疾病対策予防センター(CDC/U.S. Centers for Disease Control and Prevention)が血液サービス業界と行った会議で設置されたタスクフォースは、血漿のルーチンスクリーニングにB型肝炎の抗コア検査を組み込むことに反対する多数意見を含む報告書を発表した。

タスクフォースは、B型急性肝炎の症状発現時に現れ生涯持続するB型肝炎コア抗体(anti-HBc)のリスクが高いドナーがいる地域の血液銀行で実施された複数の試験的検査を検討した結果、B型肝炎コア抗体はHIV感染者によく見られることが示唆された。

データによると、B型肝炎コア抗体陽性の割合は、血液・血漿ドナーの5〜8%、同性愛男性の84%、静脈内薬物使用者の96%だった。

12月の血液製品諮問委員会(BPAC/Blood Products Advisory Committee)会議での議論では、「検査を使用するかどうかの決定には、費用便益分析と疾病の蔓延を考慮しなければならない」と規定されていた。

タスクフォースの見積もりでは、検査1回につき、血漿採取の場合には2.5ドル、全血採取の場合には12ドル必要であり、さらに廃棄される血液新たなドナーの募集にも費用がかかるということで、合意することができなかった。

ハイリスク・ドナーの代用として検査のコストと利益について、タスクフォースの意見が一致しなかったため、大多数はB型肝炎コア抗体のスクリーニング検査の採用に反対することを決定した。

引用・出典

3月11日

「風の谷のナウシカ」封切り

宮崎駿原作・脚本・監督の長編アニメーション映画「風の谷のナウシカ」が封切られた。

春休みの3月公開で、観客動員は約91万5千人、配給収入は約7.4億円。

1984年度のアニメグランプリ、日本アニメ大賞の作品部門をダブル受賞。また、映画雑誌ではベストテンに選出され、新聞のコラムでは「女性原理の主張」や「自然との共生」という視点を賞賛されるなど、アニメの枠を越える評価を受けた。国内外で複数の映画賞を受賞し、アニメーション作家としての宮崎駿の知名度を引き上げる作品となった。

引用・出典

3月18日

江崎グリコ社長誘拐事件

18日21時ごろ、当時兵庫県西宮市に居住していた江崎グリコ社長江崎勝久の実母宅に拳銃と空気銃を構えた2人の男が勝手口を破って押し入り(家の外には車の運転手役の男がおり、犯行は3人組の男が実行している)、同女を縛り上げて社長宅の合鍵を奪った。2人組はそのまま隣家の社長宅の勝手口から侵入、社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めた。その後、2人の男は浴室に侵入。長男、次女と入浴中だった社長を銃で脅し、全裸のまま拉致(略取)した。夫人はこの後、自力でテープをほどいて110番通報。

翌19日1時頃、江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るよう電話があり、取締役が指定場所に向かうと、社長の身代金として現金10億円と金塊100キログラムを要求する脅迫状があった。

事件から3日後の14時半頃、社長は自力で逃げ出し無事に保護された。

その後、一連の「グリコ・森永事件」へと展開していく。

参考・引用

3月30日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンセクシュアルマイノリティ関連人物米国にAIDSを持ち込んだと濡れ衣を着せられたガエタン・デュガ、死去特に大事な記事

メディアが最終的に北米で70万人以上を殺す伝染病を最初にアメリカに持ち込んで故意に広めた悪魔のような存在「ペイシェント・ゼロ(患者0号)」と誤って広められ、長年、中傷され続けたカナダ人のフライト・アテンダントのガエタン・ドュガが、ケベック市でエイズのために32歳で亡くなった。

1982年、社会学者ウイリアム・ダローと米国疾病予防管理センター(CDC)の共同研究者たちは、同性愛男性たちの間で爆発的流行を見せていたカポジ肉腫と呼ばれる皮膚がん症例について、ジョージア州からカリフォルニア州にわたって調査を行った。

ダローは、3つの異なる郡に住む3人の男性が性交渉の相手として挙げた人々の中に、共通する1人の男性、ガエタン・ドュガというフランス系カナダ人のフライト・アテンダントがいることが分かった。

1980年、ドゥガはカポジ肉腫と診断された。当時のLGBTQコミュニティでは、それは神秘的な「ゲイ癌」として知られていたが伝染性は認識されていなかった。

CDCの研究者は、ドュガがニューヨーク市にいることを突き止め、そこでカポジ肉腫の治療を受けていることがわかった。そしてドュガの協力により、HIVと性行為の決定的な関係が明らかになった。

CDCの研究者たちは、当初ドュガに、カリフォルニア州外部のエイズ発症者であることを示す「Out-of-California」の略語である「O(オー)」という分類記号を付けていたが、調査の過程で「0(ゼロ)」と読み違えられ、デュガは「ペイシェント・ゼロ(患者0号)」と呼ばれるようになった。

デュガの死から3年後の1987年、ジャーナリストのランディ・シルツは「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」を出版し、ベストセラーとなった。この本の中で、シルツはペイシェント・ゼロを、ロサンゼルスに家を持ち、多くの都市を旅行していたデュガと特定し、彼が米国で最初に知られたHIV感染拡大源であることをほのめかした。

メディアは大騒ぎになり、ジャーナリストと一般大衆は「HIVを米国に持ち込んだのはドュガ」であると誤解し、1980年代初頭にウイルスを撒き散らした「腸チフス・メアリー」の再来と評され、彼の家族とともに何年にもわたって中傷に苦しめられることになった。

彼の容疑は、2016年10月に科学雑誌Nature誌に、進化生物学者マイケル・ウォロビー博士によって発表された論文によって科学的に否定されるまで、待たなければならなかった。

ウォロビーのチームは、医療機関でB型肝炎検査のために採取された同性愛男性の血清試料のうち1978年と1979年のものについて2000以上を調べた。すると、サンフランシスコの3つ、ニューヨーク市の5つの試料に、HIVの塩基配列解読をするのに十分な遺伝的痕跡が見つかり、そのデータの結果からデュガはアメリカにおけるウイルスの感染源ではないと結論づけた。

研究チームがそれらの試料の遺伝子配列を詳細に調べたところ、1970年代初期のカリブ海地域、特にハイチで見られたHIVの株に類似していることが分かった。しかし、それらの株は互いに異なっており、このためHIVは1970年頃にはサンフランシスコとニューヨーク市ですでに広まっていて、流行の間に変異したことが示唆された。さらにウォロビーがドュガの血液を分析したところ、彼の死因となったHIV株とこれらの株との間に一致が見られないことが分かった。

ウイルスの遺伝子を辿る「家系図」では、ドゥガスは最初ではなく、真ん中に位置する。彼は、AIDSという病気が認識される前にすでに感染していた多くの患者の1人にすぎないということを、全ての証拠が示しているのです

1980年代の研究者たちはまだ、HIVに長い潜伏期間があることを知らなかった。HIVは発病までに平均して10年間、人体に潜伏している。AIDSと関連する症状が多様なことも診断を難しくしてきた。

デュガはCDCに対して、パートナーのネットワークを追跡する際に特に協力的で透明性があり、多くのパートナーの名前と住所を提供していた。また、他の人々が彼の特徴的な名前を覚えていたため、さらに拡大されたことも重要である。

米国国立アレルギー感染症研究所(NIAID:National Institute of Allergy and Infectious Diseases)の所長、アンソニー・ファウチ博士は、「さまざまな疾患の歴史の中で、その疾患の責任を、ある程度誰かに負わせることが必要とされてきたのです。」と語った。1980年代に、一般市民の怒りが同性愛の男性に向くのはひどく容易なことだった。特に「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」で、ドュガが故意に病気を広めたとほのめかされたことは、とりわけ破滅的だった。

ドュガスはそれでもまだ病気を広め続けていました」と彼のカポジ肉腫を治療したニューヨーク大学ランゴン医療センターの皮膚科医アルヴィン・フリードマン・キエン医師は当時を振り返る。「ドュガは、『ゲイのがん』を自分が広める可能性があるという確かな証拠はないことを引き合いに出し、病気が重くなり過ぎてできなくなるまで無防備な性行為を続けていました」。

多くの同性愛の男性たちは当時、無防備な性行為がHIVを広めるという考えに抵抗していたと、フリードマン・キエンは言う。

同性愛者たちはセックスの自由と、同性愛者として認められ受け入れられることを目標に闘ってきたので、彼らにとって、全ての同性愛男性がこの恐ろしい病気のキャリアーの可能性があると言われることは非常に耐えがたいことだったのです。

英国ケンブリッジ大学の歴史学者でウォロビーの研究の共著者でもあるリチャード・マッケイ博士は次のように語った。

今回の研究は、「ペイシェント・ゼロ」を特定することは科学的にも倫理的にも非常に困難だということを教えてくれました。ドュガの物語は、HIVが単に永遠の虚空の中で変異を続けるレトロウイルスではなかったことをはっきりと示しています

引用・出典

4月2日

江崎グリコ脅迫事件

4月8日に指定場所へ現金6000万円を持ってくるよう要求する差出人不明の脅迫状が、江崎宅に届く。脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封されていた。

4月8日に現金受け渡し指定場所に警察が張りこむも、犯人は現れなかった。

4月8日には、犯人グループから大阪の毎日新聞とサンケイ新聞へ手紙が届く。マスコミ宛に世間一般への公開を前提とした初めての挑戦状だった。手紙には無署名で封筒の差出人名は江崎の名前を使っていた。

4月23日、江崎グリコに1億2000万円を要求する脅迫状が届く。現金受け渡し日は4月24日に指定されていたが、レストランから名神高速道路吹田サービスエリア、電話ボックスと現金を受け渡す運転手をたらい回しにし、犯人は現金受け渡しに現れなかった。

同日にはマスコミ宛に2回目の挑戦状が送られており、これ以後、犯人グループは「かい人21面相」を自称するようになる。このネーミングは江戸川乱歩の小説『少年探偵団』シリーズに登場する怪人二十面相に由来するものとみられる。

5月31日、江崎グリコに3億円を要求する脅迫状が届く。6月2日に摂津市内のレストランの駐車場に3億円を積んだ車を置くことを指示。6月2日、大阪府警察本部刑事部捜査第一課は特殊事件係を中心に30人体制で犯人を待ち受けた。後部トランクに忍んだ捜査官がスイッチを押すことにより、エンジンをストップできる細工を施された車を駐車場に置き、周辺には特殊事件係が展開した。

20時45分頃、駐車場に不審な男が現れ、そのまま車に乗りこむ。後部トランクの捜査官は無線機のトラブルにより連絡が取れなくなり、予定の地点よりも早くエンジンをストップさせた。特殊事件係の捜査車両数台に包囲され、運転手は取り押さえられた。しかし、運転手は犯人から脅されて、駐車場の車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示されただけで事件とは無関係と判明。特殊事件係の捜査官数人は運転手が行く予定だった指定場所に捜査車両を急行させると、不審車両1台が走り去ろうとしたため追跡。ところが、国道1号線の交差点で見失ってしまう。

6月26日、犯人グループからマスコミに挑戦状が届き、「こども なかせたら わしらも こまる 江崎グリコ ゆるしたる」と江崎グリコへの脅迫収束宣言をする。この挑戦状で犯人グループは「ヨーロッパへ行く。来年1月に帰ってくる」と国外逃亡を示唆していたが、後日別の挑戦状で「警察がうるさくていけなかった。もうすぐ一仕事してから行くつもりだ」と述べ、国外逃亡を事実上断念している。

その後、9月の森永製菓脅迫事件が発覚するまで報道上の犯人グループの動きはなかったが、後述の通り丸大食品を脅迫している。

参考・引用

4月6日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンAIDS患者をケアする医療従事者の粘膜暴露後調査で、リスクが小さいことが判明最新記事

前年の1983年8月から、CDC(米国疾病対策予防センター)は、AIDSが明らかに疑われる患者の血液や体液からの非経口、または粘膜経由で暴露されて医療従事者の調査を開始し、83年12月31日までに、そのような暴露を受けた51人の医療従事者が、CDCの監視登録された。

51人は、医師9人(18%)、看護師24人(47%)、瀉血(しゃけつ:血液を抜く担当医)担当医5人(10%)、呼吸療法士3人(6%)、残り10人(20%)は、研究室やメンテナンス担当者などの患者と直接接する機会が少ない医療従事者だった。

登録された51人は、1981年4月から1983年の11月の間に暴露が発生し、追跡期間は83年12月31日までの1ヶ月から32ヶ月の範囲で調査されたが、その中にAIDSを示唆する症状やAIDSを発症した者は0人だった。

暴露の大部分は、患者が直接治療を受けるエリアで発生していた。27件(53%)は病室または病棟内で発生し、12件(24%)は集中治療室、7件(14%)は研究室、5件(10%)は手術室または遺体安置所で発生。

発生した暴露の種類は、針刺し事故65%、鋭利な器具による切り傷16%、粘膜露出14%など。曝露後の処置としては、局所ケアのみ41%、他はB型肝炎免疫の投与などで対応していた。

この調査の目的は、AIDS患者からの潜在的な感染性物質に暴露される医療従事者に対するリスクがある場合、そのリスクの度合いを評価することだった。

当時、AIDSは親密な性的接触、または血液や血液製剤の経皮接触によって感染すると考えられており、感染者との偶然の接触や空気感染による感染の証拠は無く、特定の職業上の暴露が確実に原因と考えられる医療従事者のAIDS症例もないことは分かっていた。

AIDS患者からの血液または体液の経皮的または粘膜暴露による医療従事者への感染リスクはまだ未定義だったが、当時の利用可能な疫学データは、たとえ感染のリスクがあっても小さいことを示唆していた。

医療従事者がAIDS感染を予防するために推奨される予防措置は、すでに発表されており、これらの予防措置はリスクを最小限に抑えることを目的としていた。CDCの説明によると、51人の暴露の3分の1以上は推奨された予防措置で回避できた可能性があり、医療従事者はこの予防措置を遵守することが求められている。

参考・引用

4月10日

江崎グリコ本社放火事件

4月10日20時50分頃、大阪府大阪市西淀川区の江崎グリコ本社で放火が発生。火元は工務部試作室であり、火は棟続きの作業員更衣室にも燃え移り、試作室約150平方メートルが全焼。

21時20分、本社から約3km離れたグリコ栄養食品でも車庫に止めてあったライトバンが放火される。こちらはすぐに消し止められた。犯人はガソリンの入った容器に布を詰めたものに火をつけていた。

出火の直後には、帽子を被った不審な男がバッグを抱えて逃げるのが目撃されている。

参考・引用

4月23日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(海外)米国保健福祉省のマーガレット・ヘックラー長官が国立がん研究所のギャロ博士のグループによりAIDSの原因ウイルスが分離されたと宣言特に大事な記事
記者会見を開くヘクラー長官とギャロ博士
記者会見を開くヘクラー長官とギャロ博士
(引用:"The day they discovered the AIDS virus" MSNBC)

まず第1に、AIDSの原因と思われるものが発見されました。第2に、その病原体が特定されただけではなく、このウイルスを大量に培養できる新しい製法が開発されました。第3には、ウイルスとこの新しい製法が発見されたことで、AIDSの血液検査が可能になったことである。血液検査によって、AIDS患者を実質的に100%確実に特定することができます。

米国保健社会福祉省のマーガレット・ヘクラー長官は、国立がん研究所のロバート・ギャロ博士と共に記者会見を開き、HTLV-IIIと名付けたレトロウイルスがAIDSの原因であることを突き止めたと発表した。ヘクラーはまた絶望的な国民に対し、HTLV-IIIを特定する診断用血液検査の開発を発表し、エイズに対するワクチンが2年以内に製造されることに期待を表明した。

急遽準備された彼女の記者会見は失態に満ちていた。報道機関のリークにより数週間早まったこと、一部フランスの発見であったものを米国の手柄と主張したこと、新たに発見されたウイルスの同定を誤ったこと、2年以内にワクチンができると予測したこと。しかし、この発表は画期的なインパクトを与えた。それは、やがて人類史上最悪の疫病のひとつになるであろうものの原因を明らかにし、今日もなお続いている科学的・社会的革命の火付け役となったのである。

ヘクラー長官の行動は、問題の多い政権を象徴している。2006年のPBSのインタビューで、彼女はレーガン大統領による支援について質問され、「これはお金で解決できる問題ではなく、科学者が解決できる問題でした。」と答えた。医学界の権威に肩入れするヘクラーは、この危機に対するレーガン政権の責任を回避していた。

1982年から1989年までのレーガン政権のエイズ対策について、C.エヴェレット・クープ軍医総監はインタビューで次のように語っている。

同性愛嫌悪の政権(homophobic administration)だったと言う人もいるが、それは間違いだと思います。ホモフォビアには恐怖という意味合いがある。これは恐怖ではなく、憎悪だった。

当時、原因はまだ謎に包まれており、無知が恐怖と偏見を煽っていた。サンフランシスコの警官はゲイから身を守るためにマスクと手袋を着用し始め、右派のコメンテーターは悩める人々を邪悪だと辱めている時代だった。

研究者らがエイズの原因を特定したという点では正しかったが、当時それはまだ明確ではなかった。この1年前にリュック・モンタニエ率いるフランスのグループは1年前にLAVと呼ばれるHTLV-IIIと同じウイルスをすでに発見しており、特許権をめぐり競合する主張は激しく対立し、1987年になってようやく両者の主張が整理され、1985年米国食品医薬品局が承認した血液検査法の特許権使用料と手柄を分かち合うことになった。

とはいえ、原因となるウイルスを分離し、信頼できる検査法を開発したことによって、研究者たちは突然、迷信から理性への道を切り開いたのである。ほとんど一夜にして、この発見によって科学者たちは、AIDSがどのように広がり、どのように広がらないのかを説明することができた。

そして、この発見によって豊かな国々は血液供給を確保し、病院での感染を減らすことができ、感染症を生存可能なものにした。最初の抗HIV薬は、AZTと呼ばれる失敗した抗がん剤であったが、1986年に市場に出回り、1996年までには3種類の薬物カクテルが、死の宣告を管理可能な慢性疾患に変えることができるようになった。

ただ、ワクチンはまだ実現していない。HIVは、感染した体内では毎日1,000億個もの自分の複製を、異常なエラーの多さで増殖させ、遺伝的に変異した可変ウイルスの群れを急速に作っていくため、どんな新薬を開発しても、すぐに効果を失ってしまう。

また、ウイルス、ましてやエイズウイルスのようなレトロウイルスのワクチンを作るのは非常に難しく、時間も費用もかかる。ウイルスは実験室での培養で増殖させ、体内の免疫系で異物を攻撃する分子である抗体を生成する製品を作るためにそのまま使用しなければならない。ワクチンが病気を引き起こさないことを確認するためには、ウイルスの弱毒株や死株を開発しなければならない。それが達成した後、動物実験を行い、エイズウイルスが実際に病気を引き起こすこと、そしてワクチンが安全に中和できることを示さなければならない。ワクチンが広く使われるようになるには、人間での実地試験が欠かせない。そのため、ワクチンの開発、特にAIDSのワクチンは非常に困難とされている。

参考・引用

4月27日

福岡市地下鉄2号線(現在の箱崎線)延長部(呉服町駅〜馬出九大病院前駅間)が開業
参考・引用

5月4日

海外での出来事研究・医療関連のアイコンギャロ博士が「サイエンス」にウイルス(HTLVⅢ)分離の論文特に大事な記事
ギャロ博士
ロバート・ギャロ博士
(引用:"How the discovery of HIV led to a transatlantic research war" PBS New Hour)

4月23日にマーガレット・ヘクラー長官と記者会見を行った国立がん研究所のロバート・ギャロ博士は、科学雑誌サイエンス誌に、HTLV-IIIと呼ばれるレトロウイルスを特定する4本の論文を発表し、後天性免疫不全症候群の原因としてこれを正確に特定した。。

論文の中で、ギャロは研究室でこのウイルスを大量に増殖させたと主張している。しかし、そのわずか1年前の1983年5月20日、パリのパスツール研究所にいたフランスのウイルス学者リュック・モンタニエと彼のチームは、エイズ患者から分離したリンパ腺症関連ウイルス(LAV)と呼ばれるレトロウイルスを特定する論文をScience誌に発表していた。

ギャロの論文が発表された直後、DNA分析によってアメリカのHTLV-IIIウイルスとフランスのLAVウイルスが同じであることが証明された。その後、ギャロが何らかの悪意ある手段でモンタニエ・ウイルスを入手し、自分のウイルスとして使用したのではないかという疑惑が囁かれるようになった。

米国国立衛生研究所(NIH/National Institute of Health)には、開発した抗体検査によって莫大な経済的な報酬が期待できた。しかし、この検査の特許権について、米国保健福祉省(ギャロ)か、フランスのパスツール研究所(モンタニエ)か、あるいはその両方かということについて、長い争いが始まった。

臨床HIV検査に関する米国保健福祉省の特許に異議を唱えるため、パスツール研究所は1985年12月に訴訟を起こした。この泥沼の争いは1987年、ロナルド・レーガン大統領とフランソワ・ミッテラン仏大統領によって、すべてのHIV研究とそれを検出した血液検査から得られる科学的信用と特許使用料を分割するという正式な合意がなされ、最終的に収束した。

国立衛生研究所(NIH)は調査を実施し、ガロの不正行為の容疑を晴らすとともに、ガロと彼の同僚が自分たちの研究から多くのHIV分離株を持っていたことを証明した。しかし、この公式報告書には大きな疑問があった。

ガロ研究所の1983年から1985年までのウイルス保管庫から発見されたサンプルの一つは、モンタニエの研究室からのものであった。このサンプルには2つのウイルスが含まれ、ある患者のウイルスが別の患者のウイルスサンプルに混入していたものだった。したがって、モンタニエ研究所が送り、ガロ研究所が調査したサンプルは、実際にはプール培養であった。ガロ研究室は、その画期的な研究でモンタニエのサンプルをうっかり使ってしまったことを認めた。

その後、ガロとモンタニエは、ウイルスの共同発見者という肩書きを共有することに同意し、サイエンス誌(2002年12月29日号)とNew England Journal of Medicine誌(2003年12月11日号)に、自分たちの研究を記述したいくつかの論文を共同で執筆した。

ギャロはこの共同研究に対して、1986年には、1982年にレトロウイルスの研究で受賞して以来2度めとなる栄誉あるラスカー賞を受賞した。その後、アメリカ中の病院や研究所で、ストックホルムからノーベル生理学・医学賞の受賞の電話がかかってくる日もそう遠くはないだろうというざわめきが起こった。

しかし、2008年秋、ノーベル委員会からはリュック・モンタニエにだけしか声がかからなかった。ノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、パスツール研究所でHIVの研究を共にしたフランソワーズ・バレ=シヌシや、ヒトパピローマウイルス(HPV)の発見者であるハラルド・ズール・ハウゼンの3名だけだった。

科学界はノーベル委員会がガロの研究を否定したことを知り、衝撃を受けたが、その記録は2058年まで封印されているため、私たちの多くがこの世を去るまで、この決定の背後にある正確な論拠を知ることはできない。ある者は、ギャロがどのようにしてウイルスサンプルを入手したかという論争が、賞委員会を反発させたのではないかと推測し、またある者は、より皮肉なことに、人気投票であり、ギャロは賞を与える権力を持つ人々から嫌われていたのだと述べている。

モンタニエがノーベル賞を受賞したときに次のように語った。

HIVがエイズの原因であることを証明することは非常に重要であり、ギャロはそのために非常に重要な役割を果たした。ロバート・ギャロには大変申し訳なく思っている。

歴史という広い視野で見れば、ギャロの科学と社会に対する偉大な貢献は、いかなるスキャンダルも凌駕していると言えよう。

参考・引用

5月10日

兵庫青酸菓子ばら撒き事件

5月10日に毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞の4社にかい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」と挑戦状が届いた。

さらに挑戦状には全国にばらまくとの予告があり、挑戦状の終わりには「グリコを たべて はかばへ行こう」とまで書かれていた。その事態を受けて大手スーパーはグリコ製品の撤去を始めた。

この時は、実際に青酸入りの製品が発見されたり、また青酸入りの製品が送り付けられたりすることはなかった。

参考・引用

5月12日

放送衛星を使っての衛星放送、本放送開始

この日、放送衛星BS-2aを利用し衛星試験放送(NHK衛星第1テレビ)が開始された。これは世界初の衛星放送で、全国42万世帯と呼ばれたテレビ難視聴対策にとっても大きな一歩となる。当時の難視聴地域・小笠原諸島でも本土と同じテレビが見られるようになり、祝賀行事が行われた。

参考・引用

6月2日

寝屋川アベック襲撃事件

6月2日、グリコ脅迫事件において指定されたレストランの駐車場より約2.8km離れた寝屋川市で、商事会社に勤める男性と同僚で恋人の女性が車でデートをしていた。しかし20時15分ごろ、停車中に男3人組に襲われる。男性は元自衛官で腕力には自信があったが、さすがに3対1では敵わなかった。男3人組は男性が無抵抗になるまで殴打を続け、その後車に乗せて黒い布袋をかぶせた。

1人は別の車に女性を連れ去り、残る2人組が男性の車に乗りこみ、男性はグリコ脅迫事件において指定されたレストランの近くまで運転しないと女性の命を保証しないと脅迫され、犯人の言われるままに行動。レストランの近くまで運転すると降ろされ、駐車場にある車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示された。

その後この男性は、大阪府警察本部捜査第一課に犯人と誤認され身柄を確保されたが、事情聴取中に事件とは無関係なことが判明したため、誤認逮捕されることなく、すぐに放免された。

一方、女性は別の車に乗せられ、21時半ごろに降ろされた。女性は犯人からタクシー代として2000円を渡されている。

6月3日未明、男性の車が寝屋川市の神社の参道に乗り捨ててあるのが発見された。

参考・引用

6月4日

海外での出来事人物セクシュアルマイノリティ関連フランスの哲学者ミシェル・フーコー死去
1974年のフーコー
1974年のミシェル・フーコー(ウィキペディア)

第二次世界大戦後、最も影響力があり、物議を醸した学者の一人であり、哲学者で、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家でもあったフランスのミシェル・フーコーAIDS関連疾患のため57歳で死去。

その翌日、フランスの新聞リベラシオン紙は、フーコーの死因はAIDSだという噂を死亡記事に掲載する。これに対し、ル・モンド紙は遺族の許可を得て、HIV/AIDSには一切触れない医学会報を発行した。

6月29日、フーコーの棺が病院の死体安置所からヴァンドゥーブル・デュ・ポワトゥーの墓地まで運ばれ埋葬された。活動家や学者の友人など数百人が参列し、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズフーコーの画期的な著作『性の歴史』からの抜粋を含む弔事を行った。

医師の息子であり孫でもあるフーコーは、ブルジョワの家庭に生まれた。1946年、20歳でパリの高等師範学校に入学し、細心で聡明、そしてエキセントリックな学生として評判を確立した。

1952年の卒業後、フーコーはヨーロッパを旅し、自身の著作をまとめた単行本を出版し、1969年には『知の考古学』(L'Archeologie du savoir)を出版し、当時の最も独創的で物議をかもす思想家の1人として注目を集めた。

その1年後、彼はフランスで最も権威のある高等教育機関であるカレッジ・ド・フランスの主任教授に任命され、集中的な研究を開始し、1971年から1984年にかけて、フーコーは『規律と処罰-監獄の誕生』(1975年)、3巻に及ぶ『性の歴史』など、多数のエッセイなどの著作を残した。

フーコーは広く旅を続け、その名声が高まるにつれて、ブラジル、日本、イタリア、カナダ、アメリカに長期滞在した。サンフランシスコには特に愛着があり、カリフォルニア大学バークレー校の客員講師を数年間務めた。

フーコーは「同性愛者」というレッテルを軽蔑していたとされるが、同性愛者であることを公言し、サドマゾヒズムや浴場の快楽を称賛することもあった。フーコーは『性の歴史』の第4巻を執筆中に死去。

フーコーのパートナーであったダニエル・デフェールは、その後、フランスで最初のHIV/AIDS団体「AIDES」を設立する。AIDESは、フランス語の「help」(aide)と英語のAIDSの頭文字をとったものである。フーコーの死から2年後の1986年、デフェールはフーコーの死がエイズに関連したものであることを公に発表した。

参考・引用

6月14日

辛子蓮根で食中毒発生

1984年6月14日から6月28日にわたって発生した熊本県三香株式会社製造の真空パックからしれんこんに起因するボツリヌス中毒は9月26日厚生省集計で、13都県市にまたがり、患者31名、死者9名に達する大事件となった。

疑いの患者を含めると6月9日にさかのぼり、2県市、患者5名、死者2名がさらに加わる。

この事件への対応は6月24日(日)に宮崎県から熊本市の化学及血清療法研究所保有のボツリヌス治療用血清緊急輸送協力依頼があったことに始まる。

翌25日には患者4名の共通喫食食品に株式会社三香製造からしれんこんがあるとの情報が入り、また長崎県でも千葉血清に治療用血清を手配していること、同じくからしれんこんを食べているとの連絡を得て、ただちにボツリヌス中毒発生、推定原因食品は三香製造の真空パックからしれんこんであるとの発表が全国に流された。

この処置によってその後の患者発生を最小限度にくいとめ、また、発症中の患者の診断治療におおいに役立ったものと考える。

今回の全国にまたがる事件はなんらかの特殊な事情でからし粉にボツリヌス菌の微量汚染がおこり、これを使用した真空パック三香製造からしれんこんが菌発育に好適であり、流通過程で常温相当期間の後有毒化が進んだために生じたものと考えるとのことだった。

参考・引用

6月15日

エリマキトカゲ、初来日

TBS系の『わくわく動物ランド』で取り上げられ、三菱自動車のミラージュのCMに登場したことで、人気が沸騰。ブームに乗って、人形、ぬいぐるみ、ジグソーパズルなどの様々な商品が登場。

6月15日には初めて輸入され、東京のデパートで公開。その後次々に大手デパートや動物園に輸入され、集客の目玉となっていった。

流行は加熱し、レコードとしてかまやつひろし『音頭エリマキトカゲの真実』、かしわ哲『元祖エリマキトカゲ音頭』、ビートきよし『E・Ri・Ma・Kiとかげっこ音頭』、はやしこば『あのエリマキトカゲの唄』などのレコードやエリマキトカゲのビデオ、1984年放送の時代劇『必殺仕事人IV』第39話「加代 エリマキトカゲを目撃する」なども作られている。

8月7日には、日本人の密猟グループが観光ビザでニューギニア島に入り、エリマキトカゲの密猟が発覚したという朝日新聞の報道もあった。

当時60匹以上いたとされる半数以上は密輸であり野生動物保護の観点から国際的非難を浴びた。

このブームの中で、翌年の1985年に開催が予定されていた「つくば万博」での展示案が浮上したが、当時の岩動道行科学技術庁長官は記者会見で、「動物愛護の精神に反する。そんなことで客引きするとはとんでもない。あんなかわいそうなことに私は反対。アイデアとして何か考えたいということだろうが、そんな無理する必要があるか」との怒りのコメントが9月10日の朝日新聞で報道された。

ブームは、夏が終わると急速に冷め、ていった。

エリマキトカゲは、主にオーストラリア、パプアニューギニアに生息し、現在、当地では野生動物全般の商取引を禁止している。

参考・引用

class="world_news"6月16日

TBSの人気番組「8時だョ!全員集合」にて、公開生放送中に停電

いかりやの掛け声と同時に入間市民会館の電気が落ちる停電が発生。停電が続いている間は懐中電灯を用いてゲスト紹介をするなどして時間を繋ぎ、20時09分過ぎにようやく停電が復旧すると、いかりやの「8時9分半だヨ!」という掛け声でようやく本編開始にこぎ着けた。

ただ、停電したのは入間市民会館の電源のみで、カメラやマイクなどの放送機材には外部の電源車から電源が供給されていたため、完全に放送不能となる事態は回避することが出来た。

この停電の影響で、番組全体のタイムスケジュールが大幅にずれたり後半のコントをカットする結果になる。2番目に歌唱した菊池桃子の演奏スピードがアップしたり、後半コントも20人の縄跳びコーナーをする時間しかなく、撤収時にゲイスターズの生演奏と同時に退場するが、音楽が流れずスタッフの「音、音!」という怒号が放送に乗るハプニングも発生。

縄跳びの後は、西城秀樹のバンドセットが急ピッチで用意されたが、間に合わずいかりやと西城が停電のハプニングについて話して時間を繋ぎ、出演者全員無事に歌唱した。エンディング時には、停電のお詫びをする時間が余り通常のエンディングで放送。

この日は、「ひょうきん族」が野球中継で放送されていなかったこともあり、前年の10月15日以来の視聴率26.2%を記録。1984年度第2位の視聴率を稼いだ。

参考・引用

6月22日

丸大食品脅迫事件

6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状が届く。内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」というものだった。犯人はこの裏取引に応じる合図としてパート従業員募集の新聞広告の掲載を求め、高槻市の常務宅に現金をボストンバッグに用意して待機するよう要求。警察に通報した丸大は、大阪府警本部の指導で犯人の要求通りに行動する。

6月28日20時3分、犯人からの電話があった。女性による録音で「高槻駅前の看板に指示書が貼り付けてあるので確認しろ」との内容であった。大阪府警本部は捜査第一課特殊事件係を中心とした捜査部隊を、高槻市の常務宅と周辺にスタンバイさせており、丸大社員になりすました刑事を直ちに高槻駅へ向かわせた。高槻駅前の看板には「国鉄高槻駅で指定する時間の京都駅行き電車に乗って左側の窓に白い旗が見え次第車窓から金を詰めたボストンバッグを投げ落とせ」と指示するタイプ文字の指示書があった。

丸大社員役の刑事を含め7人の特殊事件係刑事が指定された電車に乗り込む。白い旗が見えた山崎駅〜神足駅(1995年に長岡京駅に改称)間には捜査部隊の配置が間に合わなかったため、ボストンバッグを投げ落とさず高槻駅から終点の京都駅まで乗ることになった。

指定の電車に乗った刑事は電車内で不審な男を発見。そのキツネ目の不審男は丸大社員役の刑事を見張っていた。さらに刑事達が乗った帰りの電車に、キツネ目の男が乗り込む。刑事達はキツネ目の男を警戒する。

キツネ目の男
キツネ目の男
(引用:「グリコ・森永事件」ウィキペディア

しかし、現金受渡し時に現行犯逮捕して犯人グループを一網打尽にする方針を採っていた捜査本部は、刑事に逮捕権限を与えず、命令があるまで接触しないよう行動を制限していたため、それ以上のことはできなかった。

結局、キツネ目の男は駅を下りると改札口を出た後の雑踏に紛れ、刑事はキツネ目の男の姿を見失った。

7月にも丸大食品取締役宅に現金を要求する脅迫状が届く。7月6日20時7分、子供の声の録音で指定場所に来るよう指示。場所の変更は4回にも及び、最後の指定場所に現金を詰めたバッグを置くよう指示があったが、結局犯人は現れなかった。

森永製菓脅迫事件が発覚した後の11月になって犯人がマスコミへの手紙に高槻市の食品会社を脅迫したとし「わるでもええ かい人21面相のようになってくれたら」と丸大食品のキャッチコピー「わんぱくでもいい たくましく育ってほしい」をもじった言葉を使ったことで、犯人が丸大食品へ脅迫したことが暴露されたため、丸大食品への脅迫が世間に知られるようになった。

参考・引用

7月13日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連HTLV-IIIとLAVは同じウイルスであり、AIDSの病原体である可能性を示唆最新記事

AIDSの原因となる病原体について、1983年にフランスのパスツール研究所のグループが発表したLAV(リンパ節腫脹関連ウイルス)と、この年に米国国立がん研究所のギャロ博士が発表したHTLV-IIIが、同一のウイルスである可能性が示唆さ、AIDSがレトロウイルスによる感染によって引き起こされることが、この2つの発表によって示唆された。

1983年フランスのパスツール研究所が発表したウイルスが、AIDSに関連する症候群である原因不明の全身性リンパ節腫脹を患っている同性愛男性のリンパ節細胞から分離され、LAV(リンパ節腫脹関連ウイルス)と名付けられた。

米国国立がん研究所ギャロ博士が発表した、AIDS患者72人中の26人とAIDS関連の症状を持つ21人中18人のリンパ球から分離され、HTLV-III(Tリンパ球向性レトロウイルス)と名付けられたもの。

HTLV-IIIとLAVは、電子顕微鏡検査では同じ外観を示し、免疫学的にも区別ができなかった。それぞれのAIDS患者から同一のレトロウイルスが分離されたことになれば、このウイルスがAIDSの病原体であり、輸血によって感染する危険性があるという、さらなる証拠を提出したことになる。

データでは、AIDSの発生率が増加している特定の集団では、HTLV-III/LAV曝露の血清学的証拠が一般的である可能性を示唆している。

HTLV-IIIに対する抗体は、AIDSの症状のないアメリカの同性愛者男性17人中6人(35%)の血清から検出された。パリの性病クリニックに通うリンパ節腫脹のない同性愛者男性44人のうち8人(18%)の血清からも、LAVに対する抗体が検出されていた。

また、サンフランシスコの性病クリニックに通っている同性愛男性の血清検体中のLAVに対する抗体保有率は、1978年は1%だったものが(100人中1人)、1980年は25%(48人中12人)、1984年は65%(215人中140人)と上昇していた。この1984年に検査された215人の男性中、AIDSの症状もしくは兆候や関連の症状がない者については55%(126人中69人)の抗体保有率だった。

静注薬剤常用者のAIDS患者が集中しているニューヨークでは、AIDSを発症していない重症の常用者の87%(86人中75人)がLAV抗体を持っていた。しかし、3年以上の静注薬剤の減少治療を受けていた35例ではLAV抗体陽性率は10%以下だった。

また無症状の血友病Aの患者の72%ではLAV抗体を持っており、その全員が1980年から82年の間に第VIII因子の血液製剤を治療に用いていた。

これらのグループでのHTLV-III/LAVの高い抗体保有率と、サンフランシスコの同性愛男性間での抗体保有率の急増は、HTLV-III/LAVがAIDSの病原体であることを裏付けていた。そして、AIDSの発生率が増加している集団間では、AIDSそのものよりもウイルス感染がはるかに一般的であることを示していた。

AIDSが他の多くの感染症のパターンに従う場合、感染の反応は無症状から重篤なものまで幅広いものであると示唆している。しかし、一部の人にとり偽陽性の発生の可能性は排除できず、その原因は当時はまだ明確ではなかった。また、AIDSの生命を脅かす症状までの潜伏期間1年以上から4年以上と見られていたが、軽度まだは病気の兆候のない抗体陽性者の予後は不確実のままであった。

これらの問題を解決するためには、慎重に計画され、実行される研究が不可欠だ。AIDSを引き起こすウイルスの陽性・陰性判定の検査の有用性が完全に確立するまでは、病気の伝搬を最小限に抑えるため、感染は、親密な性的接触、汚染された針の共用、それほど頻繁ではないが、血液または血液製剤の輸血によってのみだったことを強調する必要があるとしていた。

参考・出典

7月28日

ロサンゼルス・オリンピック開幕

140の国と地域が参加。しかし、前年のソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議するという理由で、アメリカが西側諸国とイスラム諸国にボイコットを呼びかけた結果、日本、西ドイツ、大韓民国、サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシアなどの国々が参加しなかった。その報復として東側諸国は本大会をボイコットした。

なお、ロサンゼルス大会の不参加国はソビエト連邦、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどであった。不参加国は本大会に対抗する形でフレンドシップ・ゲームズを開催した。

一方、社会主義陣営の国のうちソ連と距離を置いていたユーゴスラビアとニコラエ・チャウシェスク政権のルーマニアはモスクワオリンピックとロサンゼルスオリンピックの双方に参加してロサンゼルスオリンピックではルーマニアは開催国である米国に次ぐ数の金メダルを獲得し、中華人民共和国は中ソ対立でアメリカと接近したため、モスクワオリンピックは不参加、ロサンゼルスオリンピックは参加して金メダルはルーマニアと西ドイツに次ぐ数を獲得した。

ソ連・東欧圏の選手が出場しなかった結果、射撃の蒲池猛夫(日本)、体操女子個人総合のレットン(アメリカ)など、幾つかの競技で、それまでメダルに縁の無かった国に金メダルをもたらした。特にレットンの金メダル獲得はアメリカで体操のブームを呼び、多くの子供達が体操競技を始めた結果、のちの体操競技におけるアメリカ勢の躍進の原動力となった。

また、「女子選手には危険過ぎる」との理由で長年開催されていなかった女子マラソンがこの大会から公式競技となったが、8月開催の大会のため酷暑の中でのレースとなり、温度を下げるためにコース中にシャワーを設置するなど対策を行ったものの、ガブリエラ・アンデルセン(スイス)が脱水症状により千鳥足でゴールする事となった。

カール・ルイス(アメリカ)は、100m、200m、4×100mリレー、走幅跳の4種目にエントリーし、全種目金メダルの4冠を達成し、ミスター・オリンピックと呼ばれた。

開会式はアメリカ東部時間に合わせて午後5時から開式。ロナルド・レーガンによる開会宣言、ジョン・ウィリアムズによるオリンピックテーマ曲、風船を持った人間による人文字、軽飛行機による「WELCOME」の文字の描かれた幕を牽引した展示飛行、飛行船2隻による巨大な「WELCOME」の幕の上空掲揚、ビル・スーターの操縦する個人用ジェット推進飛行装置・ロケットベルトを使った空中遊泳(俗にロケットマンと呼ばれた)、多数のピアノを使用したラプソディ・イン・ブルーの演奏などが催され、とくにロケットマンの演出は大きな話題を呼んだ。

閉会式は8月12日午後6時30分に開式通告され、五輪旗がロサンゼルスのトーマス・ブラッドリー市長からIOCのサマランチ会長に、そしてソウル市の廉普鉉市長に手渡された。また、大会委員長のユベロスにオリンピックオーダーの称号が与えられた。聖火が消灯された後、UFOとの音と光の交信が行われ、宇宙人が登場。そして花火で大会が締めくくられた。

ロサンゼルスオリンピック開会式 Part1
ロサンゼルスオリンピック開会式 Part2
参考・引用

8月15日

海外での出来事市民運動など民間の動きセクシュアルマイノリティ関連人物初期のAIDS活動家ボビー・キャンベル死去最新記事特に大事な記事

AIDS活動家のボビー・キャンベルがサンフランシスコでAIDS関連の病気により32歳で死去した。

そのわずか1カ月前、キャンベルはサンフランシスコで開催された1984年の民主党全国大会の「レズビアンとゲイの権利のための全国行進」で演説していた。

キャンベルは、『ニューズウィーク』誌の表紙を飾ったボーイフレンドと抱き合い、「アメリカ中部にゲイの愛は美しいということを示すため」と観客に語った。彼は、その時点でAIDSで亡くなった2,000人のために、そして「これが終わる前にAIDSで亡くなる人のために、15秒間の黙祷を捧げた。

そして、政治家が取り組むべき一連の懸念事項、研究と支援サービスの両方に対する資金提供の増加、HTLV-III(現在HIVとして知られている)の検査法の登場による差別の可能性への警告などを提示し、次期選挙に立候補するすべての候補者に対し、AIDS患者と面会するよう訴えた。

民主党全国大会でのスピーチの2週間後、キャンベルはダン・ラザーとともにCBSイブニング・ニュースに出演した。AIDSの噂と恐怖は多くの聴衆に届いていたが、正しい情報は伝わっていなかったために、キャンベルはガラス張りのブースに入れられ、技術者たちはインタビュー用のマイクの配線をするために彼に近づくことを拒否した。

1984年8月15日正午、民主党全国大会演説からちょうど1ヵ月後、集中治療室で2日間生命維持装置につながれた後、ボビー・キャンベルは両親とパートナーのボビー・ヒリアードに見守れなながらサンフランシスコ総合病院で息を引き取った。ボビー・キャンベルは32歳で、当時AIDSと呼ばれていた病気と3年半以上闘っていた。

ボビーがこの世を去った2日後、カストロ・ストリートは彼の死を悼み、彼の人生を祝福し、人間の尊厳に対する彼の偉大な貢献を称えるために人々が集まるために閉鎖された。2014年、カストロ・ストリートのヒストリー・ウォークのプレートは、彼と、彼が "カストロ・ストリート498番地にあるスター薬局の窓に「ゲイの癌」に関する最初の告知を掲示した日 "を記念したものだった。2021年、彼はサンフランシスコのレインボー・オナー・ウォークの表彰者に選ばれた。

パートナーのボビー・ヒリアードも、ほどなくしてこの致命的な病に倒れてしまう。

NEWSWEEK紙の表紙に掲載されたボビー・キャンベル(左)と恋人のボビー・ヒリアード
NEWSWEEK紙の表紙に掲載されたボビー・キャンベル(左)と恋人のボビー・ヒリアード
(引用:"Bobbie Campbell" WikipediA
関連項目
参考・引用

9月4日

研究・医療関連のアイコン国や政府の対応(日本)AIDSの実態把握に関する研究班解散、AIDS調査検討委員会発足
参考・引用
京都・大阪連続強盗殺人事件が発生

京都・大阪連続強盗殺人事件は、京都府京都市北区と大阪府大阪市都島区で2件の連続強盗殺人事件が発生した。

犯人の廣田 雅晴(当時41歳)は、京都府警察の元警察官(最終階級は巡査部長、最終配属先は西陣警察署十二坊警察官派出所)だが、この事件から7年前の1978年(昭和53年)に西陣署から盗んだ拳銃で強盗傷人などの事件を起こして懲戒免職となり、懲役7年の刑に処されていた。

事件5日前(1984年8月30日)に加古川刑務所を仮出所した廣田は、9月4日に京都市北区の船岡山公園で、十二坊派出所の男性巡査A(当時30歳、殉職後警部補に2階級特進)を包丁で滅多刺しにした上、奪った拳銃で銃撃して殺害(京都事件)。

その約3時間後、廣田はAから奪った拳銃を持って大阪市都島区の消費者金融店舗を襲撃し、従業員の男性B(当時23歳)を射殺して現金60万円を奪った(大阪事件)。

警察官から奪われた拳銃が用いられた強盗殺人事件は、1982年(昭和57年)に発生した勝田清孝事件以来で、警察庁は一連の事件を、広域重要事件115号に指定している。廣田は刑事裁判で無実を主張したが、1998年(平成10年)1月16日に死刑判決が確定している。

京都・大阪短銃強奪射殺事件、京都・大阪短銃連続強盗殺人、ピストル強盗連続殺人事件、広田事件、広田雅晴事件とも呼ばれていれる。

参考・引用

9月12日

森永製菓脅迫事件

9月12日朝、大阪府大阪市の森永製菓関西販売本部に数千万円を要求する脅迫状が届く。脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、青酸入りの菓子が同封されていた。脅迫状には、グリコが犯人グループに6億円を支払ったと書かれていたが、真偽のほどは定かではない。

9月18日に犯人から関西支社に電話があり、子供の声で現金の受渡し場所を指定した内容の録音を、5回繰り返し再生した。その後、指定場所に行くと別の指定場所で現金を置くよう指示があり、現金を置くも、犯人は姿を現さなかった。この電話は10月11日に一般に公開された。

なお、森永製菓に脅迫状が送られる直前の9月4日には、京都府京都市と大阪市で京都府警察の元巡査部長・廣田雅晴(1998年に死刑確定)による京都・大阪連続強盗殺人事件(警察庁広域重要指定115号事件)が発生しており、大阪府警は同時に2件の重要事件の捜査に追われることとなった。

また、9月25日には『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』『サンケイ新聞』の4紙宛てに、犯人グループから「挑戦状」が送られたが、犯人はその中で「警官広田は かっこ ええやんか」と115号事件を引き合いに出した上で、「あほは なんぼ がんばっても あほや」「あんな どじばかり しとったら 小がくせいでも あいて してくれへん ように なるで こくみんの ぜい金 むだづかい せえへんように もっと べんきょう せえや」など、大阪府警を嘲笑するような内容を綴っている。

参考・引用

9月18日

日本での出来事国や政府の対応(日本)薬害エイズ関連報道・マスコミの対応「日本上陸阻止へ、急がれる検査体制。AIDS病原ウイルス、輸入血液、大半は米国」朝日新聞

朝日新聞が、米国内でエイズ患者の輸血や血液製剤で感染・発病した人が74人いると報道。

厚生省では「ウイルスは日本に入っているかもしれないが、日本には米国のような特殊な風俗・習慣はないので、発病しないのでは」とウイルス上陸については否定しないものの楽観視。

米国などでは輸血を通しての感染を防止するため、提供者のウイルス保有の検査を開始している。日本でもこうした体制づくりが急がれると危機感を表明。

参考・引用

9月29日

海外での出来事研究・医療関連のアイコン薬害エイズ関連第VIII因子血液製剤のAIDSウイルス、加熱による不活化を証明最新記事

AIDSウイルスの加熱による非活性化の必要性についての論文が、科学雑誌ランセット誌で発表された。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校のジェイ・レヴィの研究グループは、第VIII因子の濃縮に使用される手順に感染性レトロウイルスが耐えられるかどうかを調べ、ヒト血漿に添加されたマウスレトロウイルスは、これらの手順に耐え、第VIII因子の凍結乾燥サンプルでは感染性を維持した。

凍結乾燥された試料は、68℃で数時間加熱されなければならなかった。

これらの所見はAIDSにおけるレトロウイルスの役割の可能性を支持し、これらの感染性ウイルスを不活化するためには第VIII因子濃縮液を加熱しなければならないことを示している。

参考・引用

10月6日

有楽町マリオン開業

有楽町駅、銀座駅にほど近い旧・朝日新聞東京本社、旧・日本劇場(日劇)、旧・丸の内ピカデリーの跡地に、有楽町西武と有楽町阪急を核店舗として有楽町マリオンがオープン。

参考・引用

10月7日

二府二県青酸入り菓子ばら撒き事件

10月7日から13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県のスーパーやコンビニから不審な森永製品が相次いで発見された。江崎勝久が当時居住していた自宅のすぐそばにあるコンビニもターゲットにされた。

「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品が置かれており、菓子の中に青酸ソーダが混入されていた。青酸入り菓子は13個発見された。

この間の10月8日には阪急百貨店などにも森永製品を置かないよう要求する脅迫状が届いた。この脅迫状の中では「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」とまで宣言している。

10月15日にはNHK大阪放送局に青酸ソーダの錠剤が送りつけられた。新聞各社への挑戦状にはこの青酸ソーダで何人殺せるかというクイズを出し、「賞品」は青酸入り森永製品、「宛先」は「刑死ちょう そうむ部きかく課長」と記されていた。

そして、この事件を重く見た警察は10月16日にコンビニに青酸入り製品を置いたとされる防犯カメラに写った人物の写真を公開した。

参考・引用

10月9日

海外での出来事報道・マスコミの対応ニューヨーク・タイムズ紙、唾液でのAIDS感染を示唆する誤報記事

ニューヨーク・タイムズ紙は、新しい科学的証拠により、AIDSが唾液を介して感染する可能性が高まったと報じている。この記事が誤りであることが分かるのは、まだ2年ほど先になる。

ヒトおよび動物実験に基づくこの証拠は、唾液が関係していることを示唆するに過ぎない。しかし、研究者たちはインタビューの中で、この研究は公衆衛生上の懸念があることを確信していると語った。

しかし、当時の個の時点で、公衆衛生当局に報告された6,000件以上のAIDS症例のうち、唾液からの感染が直接の原因とされたものはない。

研究はヒトと動物の両方で行なわれ、AIDSにつながる主な危険因子として、性的接触、血液や血液製剤の輸血が指摘されている。AIDS研究の第一人者であるロバート・C・ギャロ博士はニューヨーク・タイムズ紙に唾液がAIDSの主要な感染経路ではないと語っている。

研究はヒトと動物の両方で行なわれ、AIDSにつながる主な危険因子として、性的接触、血液や血液製剤の輸血が指摘されている。AIDS研究の第一人者であるロバート・C・ギャロ博士はニューヨーク・タイムズ紙に唾液がAIDSの主要な感染経路ではないと語っている。

唾液によってウイルスが感染してAIDSを引き起こすという明確な疫学的証拠はまだない。唾液が重要な感染手段であるかどうかという疑問は残っています。しかし、唾液がヒトにおけるAIDSの主要な感染経路であるとは思いません。

それでもこの記事は人々に恐怖を与え、AIDS患者への偏見と差別をさらに助長した。

AIDS研究、唾液による感染の可能性を示唆(ニューヨーク・タイムズの記事より)

後天性免疫不全症候群(AIDS)が唾液を介して感染する可能性が、新たな科学的証拠によって浮上した。

ヒトおよび動物実験に基づくこの証拠は、唾液が関係していることを示唆するに過ぎない。しかし、研究者たちは昨日のインタビューで、この研究結果は公衆衛生上の重大な問題を提起していると確信していると語った。

しかし、これまでのところ、公衆衛生当局に報告された6,000件以上のAIDS症例のうち、唾液からの感染が直接の原因とされたものはない。研究は人間と動物の両方で行なわれている。

これまでの疫学研究では、AIDSにつながる主な危険因子として、性的接触、血液や血液製剤の輸血が指摘されている。

エイズ研究の第一人者であるロバート・C・ギャロ博士は、『今現在の疫学調査では、唾液がエイズの主要な感染経路であるとは指摘されていません。唾液によってウイルスが感染してエイズを引き起こすという明確な疫学的証拠はまだない。唾液が重要な感染手段であるかどうか、疑問が残ります。しかし、唾液がヒトにおけるエイズの主要な感染経路であるとは思いません』と語っている。

ガロ博士は、『ウイルスが突然あちこちに蔓延したとは考えていない』、『警戒心は持ちたくない』と述べた。しかし、彼はまた、『過小評価されることは望んでいないし、事実に対処しなければならない』とも言った。

人間の患者を対象とした研究は、ボストンのニューイングランド・ディーコネス病院のジェローム・E・グループマン博士と、マサチューセッツ州ベセスダの国立癌研究所のギャロ博士らによって続けられた。彼らは、いわゆるAIDS予備軍、あるいはAIDS患者と接触したことのある18人のうち8人の唾液から、HTLV-IIIと呼ばれるAIDSの原因と広く信じられているウイルスを発見した。しかし、20人のAIDS患者の唾液からはウイルスは検出されなかった。

この研究報告はサイエンス誌の1984年10月26日号に掲載される予定だが、一部が報道された後、前日のギャロ博士への電話インタビューで研究報告内容が詳しく説明された。

カリフォルニア大学デービス校カリフォルニア霊長類研究センターで行なわれた動物実験によると、咬んだり引っ掻いたりするサルに感染するヒトのAIDSに似たウイルスの主な経路が唾液であることが判明した。シミアンAIDSウイルスは、カリフォルニアの施設の一つのケージにいるサルの最大20%の唾液から検出された。

SAIDSウイルスと呼ばれるシミアンAIDSウイルスは、ヒトのAIDSを引き起こすHTLV-IIIウイルスと同じレトロウイルスのグループに属しているが、両者には重要な違いがある。研究者たちは、ヒトのAIDSを研究するモデルとして、サルのシミアンAIDSウイルスやネコのネコ白血病ウイルスを研究した。

病理学者でデービスの研究チームのメンバーであるマレイ・ガードナー博士は電話インタビューで、『SAIDSを持つ多くの動物は唾液中にウイルスを持っている』と語った。

ガードナー博士によれば、彼の同僚は1976年から少なくとも12例のSAIDS症例を、SAIDSウイルスのキャリアである一見健康な1匹のサルにまで遡らせたという。

このサルはどこに行っても、動物と直接接触しても、病気は高い確立でこのサルと一緒に移動した』と、デービスの施設のケージ内のサルの動きを指さしながらガードナー博士は言った。

ガードナー博士はまた、彼のチームがキャリアから採取した唾液からSAIDSウイルスを分離し、それを健康なサルに注射したところ、そのサルがSAIDSに罹った、と語った。

『ウイルスはそこに存在するだけでなく、病気を引き起こすようです』とガードナー博士は言う。『なぜキャリアサルは発病しないのか、これもまた未解決の問題であるが、どのような感染症にも必ずこのような健康なキャリアが存在する』。

ガードナー博士はまた、『健康な保菌者が病原性SAIDSウイルスを感染させることができ、健康な保菌者がウイルスを伝播させる主要な経路である可能性があると確信している』と述べた。

ガードナー博士は、サルで発見された唾液中のエイズウイルスの感染について、『公衆衛生上の危険があると推測される。おそらく汚染された唾液に何度もさらされることになるでしょう。一晩で感染することはないでしょうし、一回の飲み物やキスで感染することもないでしょう。しかし、十分な量のウイルスにさらされれば、感染の可能性は高まります。間違いなく、これは公衆衛生上の大きな懸念事項です』。

ガードナー博士は、人間の唾液でも同様に考えるのは理にかなっているし、チューリッヒとサンフランシスコの科学会議でSAIDSウイルスに関するデータを発表し、ギャロ博士とこの発見について議論したと語った。

ギャロ博士は唾液中のエイズウイルスの発見を『驚くべきこと』と呼んだ。

参考・引用

10月10日

海外での出来事国や政府の対応(海外)セクシュアルマイノリティ関連サンフランシスコ市が14の浴場を閉鎖

サンフランシスコ市は、危険性の高い性行為が行われているとの報告を受け、14軒のバスハウスの閉鎖を命じた。

バスハウス(浴場=ゲイのハッテン場)がエイズ蔓延を助長していることは立証されており、閉鎖されるべきだ」とダイアン・ファインスタイン市長は述べた。

同性愛者が市の成人人口の5分の1と推定されることもあるサンフランシスコでは、これは異例のことだった。大々的に報道されたサンフランシスコ調査官による無作為電話世論調査では、回答者の市民の79%がバスハウスは閉鎖すべきだと考えていることが判明。

ファインスタイン市長は、2年にわたる浴場閉鎖キャンペーンを妨害する同性愛者権利団体に苛立ち、浴場をひとつずつ閉鎖するという別の方法を選んだ。市長の指示のもと、市は民間調査員を雇い、ゲイ・コミュニティが利用することで知られる浴場やその他の場所におとり捜査をさせ、安全でないと思われる性行為について報告させた。

ゲイ向け浴場チェーンの共同経営者デイビッド・クレイトン氏は、「彼は本当に、ゲイの人々が入る個々の部屋に入るつもりだと言うのだろうか。保健検査官が個々のドアを開けて、そこに誰がいて、何をしているのかを確認するような権利を有するとは到底思えない。」と語っている。

ランディ・シルツの著書「運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した(And The Band Played On)」によれば、市の公衆衛生局長であるマーヴィン・シルバーマン医師は、このような手口を認めなかったが、調査員がこれらの場で行われている性行為の種類を列挙した85ページの報告書を提出したとき、彼は対応せざるを得ないと感じたという。

シルバーマン医師は、AIDSは体液交換を伴う性的接触によって感染すると研究者らは考えているため、サンフランシスコ市自体が感染すると発表し、私有のゲイ浴場での性的接触を禁止するために「個人間の性行為」を許可した浴場は免許を剥奪される可能性があるとし、同性愛者の男性が出会い目的で時々訪れる私設のクラブや書店での性行為を禁止するために、市は未決定ではあるが同様の手順を講じるだろうと述べた。

そして、10月10日の記者会見シルバーマン医師は、報告書でゲイが安全でないセックスをする場所として指摘された浴場やその他いくつかの施設の閉鎖を命じ、その名前を挙げて「病気と死を助長している。」と述べた。

ベイエリア・レポーターは編集者に手紙でこう述べている

結局のところ、サンフランシスコは国民に『我々はエイズの治療法を発見した。同性愛を禁止せよ』と告げることになるだろう。それをやっている間に、成人の性的同意に関する法律を廃止してはいかがだろうか。同性愛者バッシングや道徳的逮捕が再び起こるだろう。

なぜバスハウスがこれほどまでに激しい議論の焦点となったのは、1970年代から80年代にかけてのゲイ・コミュニティにとって、バスハウスは何十年もの社会的進化を経て確立された場所だったからだ。

ワシントン・ポスト紙『銭湯戦争(The Bathhouse War)』で、バスハウスは入浴するためのものではないことを最初に認識する必要がある。スチームルームやサウナ、ジャグジーやプールがある豪華な施設もあるが、男たちが薄暗いサンフランシスコのバスハウスのロッカーや小さな個室に5ドルや10ドルを払うのはそのためではない。男たちは、他の男たちと出会い、医学用語で言うところの『複数回の匿名での性的接触』をするために利用する。

ゲイ向けバスハウスの存在意義は、ほとんどの異性愛者の生活上、何の類似点もない。もちろん異性愛者のセックスクラブや売春施設は確かに存在するが、それらには文化的な象徴性は無く、守るべき施設とされている訳ではない。

この対立は、ほとんどのサンフランシスコ住民も知らない少数の施設の営業許可以上に、病気や清潔さの基準、性行為の意味についてのものだった。このことは多くの異性愛者にとり非常に異質で不安を引き起こすため、ある種の集団戦慄を起こす。ゲイ向けバスハウスの話題になると、「どうして風呂に入りに行くのをやめられないのか」と、同性愛者と異性愛者の間の亀裂は手の施しようがないほど広がった。

しかし、多くのゲイにとって1980年代のバスハウスはそれ以上の存在だった。そこは避難所だったという。

サンフランシスコの歴史家アラン・ベルーブはポスト紙に語った。

私たちはそこに入るためにお金を払っていましたし、時にはそれが高すぎることもありましたが、私たちはセックスのためだけにお金を払っていた訳ではありません。私たちはその領域に入るためにお金を払っていたのです。そこは途方もない象徴的な意味を持っています。

同性愛者は、脅迫されたり、殺害されたり、公衆に晒されるなどの迫害に遭う恐れがあります。ゲイ向けバスハウスはまさに避難所というべきものです。批判主義や道徳主義からの避難所です。

異性愛者の世界に点在する、同性愛者同士の控えめな口コミで知られている場所は、同性愛者が安全に出会える場、それがゲイバーとバスハウスだったのです。

論争が最初に勃発したのはサンフランシスコだった。その後、ニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミ、シカゴ、シアトル、ポートランドが続き、全国に広がった。地域の政策アプローチは市全体のすべての入浴施設の閉鎖から、保健機関と地域住民の協力による利用者への教育と予防策の導入まで多岐にわたる。

バスハウスやセックス・クラブがエイズ蔓延の原因とする論争は、サンフランシスコに限ったことではなかった。ゲイの人口が多い大都市はどこもこの問題に頭を悩ませていた。ゲイ・コミュニティ内でも、公衆衛生とゲイの市民的自由のどちらが重要かをめぐって、メンバー同士が議論を戦わせた。

この20年間、同性愛者たちをこれほどまでに感情的な対立を生んだ公的問題が起きなかったのは、その存在意義のためだという。

1984年、ベルーブは、バスハウスの社会的および文化的重要性に関する証拠を提供する歴史準備書面カリフォルニア州高等裁判所に提出した。彼はまた、AIDS予防について地域社会を教育するためにバスハウスが果たせる潜在的な役割についても述べた。

AIDSの出現が多くの同性愛者男性の性行動を明らかに変えたにもかかわらず、バスハウスに頻繁に出入りする人々が危険な種類の性行為をする可能性が最も高いことは明らかだった。そうではないと彼らを説得するのは困難だったとベルーブ氏は語る。

答えはもっと教育し、よりよく提示された教育だ。病気を広めない性的行為のためにバスハウスを使うべきだ。

「伝統的に、選挙、大会、オリンピック、万国博覧会の前には都市が清掃される。その伝統的なターゲットは、売春婦、アル中、ギャンブラー、同性愛者、つまり都市の性的地下グループだ。これが無関係であるとは考えにくい。」

カストロストリートに近い場所で小さなギフトショップを営むゲイのトム・ドイル氏は、AIDSによって最終的に追い出されるまで、バスハウスで性的快楽を求めていたという。13年前にサンフランシスコに移り住んだ頃、最初はとても不安を感じながらバスハウスを訪れたときのことを回想して語った。

それらは暗く、通りから外れ、隠れていて、常に閉鎖される恐れがありました。そして、バスハウスが襲撃されるのはいつも選挙の時期だった。

良いことなのか悪いことなのかは分からないが、彼らはセックスを愛から切り離し、セックスを関係への序曲としてではなく楽しみとして区別することができたんだ。そして、バスハウスはそれを確認できる場所でした。人々はセックスをしたいからそこに行きました。愛がある必要はなかったんです。

自由には常に責任が伴います。選択の自由のために私は戦います。突き詰めれば、バスハウスは単なる施設です。ただの場所であり、閉鎖することは意味がありません。

ドイル氏にとって、その種のセックスに耽る自由は自分自身の意識にとって非常に重要であるため、バスハウスへの政府の介入は愚かであると同時に抑圧的であると考えている。 もちろん、彼はこの議論が多くの異性愛者たちをどれほど焦らせているかを知っている。

もしAIDSが同性愛者コミュニティではなく異性愛者のコミュニティを襲ったとしたら、そこに性感染症が蔓延していたら、異性愛者の反応はどうなるだろうか知りたいです。

彼らはどうやってそれを阻止するつもりですか?あなたは異性愛者全員にこう尋ねるつもりです。セックスはやめませんか?

閉鎖命令が出てから6時間以内に2件が営業を再開、さらに10件が24時間以内に営業を再開した。

この歴史的概要は、1996年に学者・活動家グループのDangerous Bedfellowsによって編集された『Policeing Public Sex』誌に掲載された。

参考・引用

10月31日

インド首相、インディラ・ガンジーが暗殺される

インド初の女性首相インディラ・ガンジーが、俳優のピーター・ユスティノフからインタビューを受けながら歩いている途中、2人のシク教徒の警護警官により銃撃を受け、病院に搬送される途中で死亡し暗殺された。

父はインドの初代首相であるジャワハルラール・ネルー。息子に第9代首相を務めたラジーヴ・ガンディー、及びサンジャイ・ガンディーがおり、この政治家一族は「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれるようになった。

インディラはシク教分離主義者の殲滅を目的とするブルースター作戦の実行を軍に指令し、シク教の聖地、黄金寺院を攻撃させた。この攻撃ではシク教分離主義運動の指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが死亡し、作戦は成功裏に終わったが、シク教徒からの激しい反発を招くことになった。

犯人のうち一人はその場で射殺され、もう一人は逮捕されて共犯者と共に1989年に絞首刑に処されている。インディラの死後、インド国民会議の政治家の煽動によって反シク教暴動が発生。インディラの後任の首相には長男のラジーヴが就いたが、彼もまた1991年に暗殺されたため、「ガンディー家の悲劇」と呼ばれた。

参考・引用

11月1日

新紙幣発行

日銀は1万円札に福沢諭吉、5千円札に新渡戸稲造、千円札に夏目漱石の肖像をそれぞれ採用した新たな紙幣を発行。

参考・引用

11月7日

ハウス食品脅迫事件

11月7日、ハウス食品工業(現:ハウス食品グループ本社)総務部長宅に脅迫状が届く。浦上郁夫社長宛ての脅迫状は現金1億円を要求する内容で、受け渡し日は11月14日、場所は京都市伏見区下鳥羽にあるレストラン「さと」と指定しており、別の脅迫状には青酸ソーダ混入のハウスシチューと江崎グリコの江崎勝久社長を拉致監禁したときに社長の声を吹き込んだ録音テープが同封されていた。

11月14日、指定されたレストラン「さと」の駐車場に、1億円を積んだ車を待機させ、車内にはハウス社員に変装した大阪府警本部の捜査第一課特殊事件係、周囲には京都府警察本部刑事部の刑事が多数配置された。

20時20分、脅迫状の予告通り犯人から総務部長宅に電話連絡がかかる。子供の声の録音で受け渡し場所を「バス停城南宮のベンチの腰掛けの裏」と指定。これを機に合同捜査本部は大阪・京都に刑事を多数配置した。その指定場所である城南宮バス停留所(京都市バス・京阪バスの停留所)へ行くと、「大津の サービスエリヤ の 身障者用の ちゅう車場の ○印の ところで とまれ」と書かれていた別の場所を指定するメモが残されており、場所の変更はこれらを含めて延べ4回繰り返された。この間、その城南宮バス停留所に隣接している名神高速道路京都南インターチェンジ付近で、警戒中の京都府警察本部の刑事がキツネ目の男を発見し、合同捜査本部に報告する[15]。この日、キツネ目の男は3回にわたって刑事に目撃される。4回にも及んだ場所の変更指示によって、現金を乗せた車が大津サービスエリアに向かった。

滋賀県警察本部には合同捜査本部から現金授受への捜査共助を要請されていたが、「名神高速道路エリア内は大阪府警本部を配置するので、名神高速道路に入らないように」と言われていた。しかし、滋賀県本部は突発事案に対応すべく刑事部捜査第一課の刑事2人を大津サービスエリアに配置する。そして大津サービスエリアに配置された刑事はキツネ目の男を発見する。キツネ目の男は尾行点検をしたり、ベンチに何かを張り付けるなどの特異動向があったものの、職務質問などは禁じられていたため、刑事はそのまま撤収したという。

滋賀県警の刑事が撤収した後、大津サービスエリアに到着した大阪府警の刑事は現金輸送車の様子を伺う不審者を目撃する。不審者の人相は、丸大脅迫事件に目撃されたキツネ目の男と一致。しかし刑事は尾行や職務質問する権限を与えられていなかったため、キツネ目の男はそのまま一般道路の方へ去って行った。

現金輸送車は指示通り草津パーキングエリアへ向かった。そこで、「名古屋方面に向かい、白い布が見えたら、白い布の下の缶に入れた指示書を見ろ」という指示を受ける。現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津パーキングエリアから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。道路管理局の巡回記録によると、14日20時50分から21時18分の間に取りつけられたものと判明。しかも白い布が付けられた防護フェンス付近には無線通信が不能な場所があったため、合同捜査本部にとっては最悪の展開となる。その場所は、県道川辺御園線が交差していた。合同捜査本部はこの県道と名神の交差部分を封鎖したが、問題の空き缶がなかった。犯人らしい男も姿を見せず、22時20分に捜査は打ち切られた。

一方、白い布があった場所の下を通る県道川辺御園線付近で、パトカーがパトロールをしており、一連の事件捜査を知らない滋賀県警の所轄署外勤課員が、夜なのに無灯火の不審な白いライトバンを発見。外勤課員が職務質問するために白のライトバンに駆け寄り懐中電灯を照らすと、運転席に男がいた。しかし、白のライトバンは急に発進。白のライトバンはパトカーと激しいカーチェイスを繰り広げパトカーを振り切った。21時25分、白いライトバンが発見されたが、男の姿はなかった。白いライトバンは11月12日に盗難された車と判明した。パトカーが不審車の前方をふさぐように停車せずに、横付けしたことを失策と指摘する論調もあった。取り逃がした外勤課員は責任を取って後に辞職し、滋賀県警本部長は自殺した(グリコ・森永事件#事件の終息)。

11月19日、ハウス食品工業課長に脅迫状が届く。11月14日の現金輸送車監視状況が書かれていた。今は森永を相手にしており、暇になったら連絡するとも書かれており、事実上の脅迫休止宣言とも受け取れた。

12月11日、パトカーの乗員3人の証言を元に作成された不審車両の運転手の似顔絵が公開された。

参考・引用

11月9日

講談社が写真週刊誌「FRIDAY」創刊

創刊以来数々のスクープを世に送り出してきたことで知られており、有名人がFRIDAYにより何らかの事実をスクープされることを指して、「フライデーされる」と呼称されることもあった。

同じジャンルの写真週刊誌『FOCUS』(新潮社:1981年創刊)、『FLASH』(光文社:1986年創刊)と共に「3F(スリーエフ)」と呼ばれていたが、『FOCUS』が2001年(平成13年)に休刊して以降は、写真週刊誌では発行部数(40万9,082部 日本雑誌協会)で1位だった。最盛期には毎号200万部を売り上げており、2015年(平成27年)度は年間26万部の売上があった。

FRIDAY創刊以降の1980年代半ばは写真週刊誌ブームで、『Emma』(文藝春秋)、『TOUCH』(小学館)など他の大手出版社もこぞって写真週刊誌を発行し「3FET」の時代となったが、『Emma』・『TOUCH』の2誌は競争に勝てず、いずれも1990年代を迎えることなく短期間で休刊した。

参考・引用

12月7日

不二家脅迫事件

12月7日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。脅迫状にはテープと青酸ソーダが同封されていた。

12月15日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。12月23日に大阪梅田の百貨店屋上から2000万円ばらまくことを要求。不二家は従わなかった。

12月26日、東京のスーパー社長宅に脅迫状が届く。1月5日に不二家に、池袋のビル屋上から2000万円ばらまくことを要求。不二家は従わなかった。

1985年1月11日に不二家脅迫事件が初めて報道され、かい人21面相が不二家を脅迫していたことが明らかとなった。

なお、事件発生直前の12月4日にアマチュア無線の7 MHz帯オフバンド(指定範囲外の周波数)にて「21面相、こちら玉三郎」「クスリは用意できたか」「ひと、ふた、ひと、ろく(12月16日と推定される)、航空券が往復確実に取れてR6(アマチュア無線での沖縄郵政管理事務所(現:沖縄総合通信事務所)の地域番号と推定される)へ行く場合は日帰りで必ずアシがつかないように戻ってくるように」「不二家はやっぱり金払わんちゅうとんのけ」「不二家あきらめたほうがええわなこりゃ」などいう「21面相」と「玉三郎」を名乗る2人の通信が北海道岩内郡のアマチュア無線家によって偶然にも傍受録音されていた(北海道テープ)。捜査本部は犯人グループの可能性が高いと判断して、捜査が行われ、一部はマスコミ向けに公開された。 普通の長距離電話で間に合うであろう通信を、なぜ傍受される可能性が高いアマチュア無線を使用して行ったのかは不明である。

参考・引用

1984年(昭和59年)の世相

当時の主な事件や世相邦楽ヒット曲
参考・引用
当時の主な事件や世相高視聴率TVドラマ
参考・引用
当時の主な事件や世相映画・配給収入ランキング
参考・引用
当時の主な事件や世相第1回ユーキャン新語・流行語大賞受賞語
新語部門金賞:オシンドローム
超人気番組だったNHKの連続テレビ小説『おしん』に因んだ新語。凄まじい苦労の連続を必死に耐え、それでも明るさを失わず他人に優しい主人公「おしん」の姿は、戦後を働き抜き、豊かさを手に入れた日本人の心情に“良質の日本人”像として共感の嵐を巻き起こした。その状況を、全国民の感情が同一にシンドローム化しているとして、『タイム』誌上で「おしんドローム」と表現。
新語部門銀賞:鈴虫発言
前年の1983年、ロッキード事件の田中角栄元首相に実刑判決が下され、同年暮れの総選挙は、政治倫理問題が最大の争点となっていく。この状況を揶揄したのが中曽根首相。「倫理、リンリ」とまるで鈴虫が鳴いているようだと切り返した。
新語部門銀賞:スキゾ・パラノ
ニューアカデミズムの旗手といわれた浅田彰氏が、人間の特質を、スキゾ人間とパラノ人間とに分類した。スキゾ人間とはいろいろなことに興味をもち、ひとつのことにこだわらない人。パラノ人間はひとつのことに熱中して、ほかのことは全く考えない人。
新語部門特別賞:特殊浴場
今でいう「ソープランド」には長いこと「トルコ風呂」という俗称があった。トルコからの留学生がこれに異議を唱え、トルコの名前を消すことに努力。「特殊浴場」などの名前が提案された。
流行語部門金賞:まる金、まるビ
渡辺和博は著書『金魂巻』で、現代の代表的職業31種に属する人々のライフスタイル、服装、行動などを、金持ちと貧乏人の両極端に分けて解説した。それを、まる金、まるビとネーミングしたところが秀逸。著書はベストセラーになり、この言葉もマスメディアだけでなく、日常会話の中にも頻繁に出てくる大流行語となった。
流行語部門銀賞:くれない族
1984年に放送されたTBSテレビの金曜ドラマ「くれない族の反乱」から生まれた言葉。以前から「誰かが何かをしてくれない」と甘える子供は多くいたが、ドラマは、この「くれない」現象が主婦層まで広がっている実態を描き、その人たちを「くれない族」と呼んだ。社会現象までを含み込んだ風俗語として評価された。
流行語部門銅賞:疑惑
「ロサンゼルスを舞台にM氏が妻を保険金殺人」という大胆な仮説を展開した『週刊文春』のキャンペーン企画『疑惑の銃弾』。この後、メディアは、事件を洪水のように報道し続けた。「疑惑」の文字は氾濫し、一大流行語となった。
流行語部門特別賞:千円パック
この年、怪人21面相が菓子に青酸ソーダを混入し、グリコ・森永など菓子メーカーを脅迫する事件が起きた。この脅迫に対抗するために森永製菓が考え出した、安全のための菓子パック。1,200円程度の内容の菓子を完全に包装し、1,000円で売った。
流行語部門大衆賞:す・ご・い・で・す・ネッ
人気番組のフジテレビ「笑っていいとも」で、所が流行らしたギャグ。大したことでもないことで大袈裟に人を誉めるときに用いるが、若者が“場”を盛り上げるために好んで使うようになり流行した。“す”の語にアクセントを置いて話すことがポイントだとか。
流行語部門大衆賞:教官!
TBSテレビ「スチュワーデス物語」で、主人公・松本千秋(堀ちえみ)が連発するセリフ。ドジでノロマなスチュワーデス訓練生が教官との師弟愛により奮闘する根性ドラマだが、パロディ風な味つけが人気を得た理由という。若者の間で、人に呼びかける時などに「教官!」とやると大受けした。
参考・引用

タイトルや解説等の中で差別的な表現が含まれる場合がありますが、当時のHIV/AIDS、セクシュアルマイノリティなどに対する状況を知っていただきたいと思い、そのままの表現を使っています。