ケンちゃんとリボン先生のHIV・エイズ基礎講座
「2021年はレッドリボン30周年」編
Lesson 5-21991年頃のアメリカ
レッドリボンがどんな風にして生まれたかを説明するには、まずは当時のアメリカがどんなだったかを知らないとね!
はいです!
パンデミックの始まり
AIDS(Acquired Immunodeficiency Syndrome:後天性免疫不全症候群)という名前がついたのは1982年だけど、初めて公式に症状の報告があったのは、その前の年の1981年なんだ。
へ〜!
それでb2021年はAIDSの流行から40年ってことなんだ!
免疫力が極端に落ちないと発症しないような原因不明の珍しい病気が、ロサンゼルスやニューヨークのゲイ男性の間に広がっているという報告がアメリカの国立防疫センター(CDC)にあって、年末までに120人以上が亡くなってしまったんだ!
えぇ〜!!
感染はどんどん広がって、1990年末までに3万人以上がAIDSで亡くなっていて、中にはハリウッドのビッグ・スターだったロック・ハドソンや、今も人気のアーティストのキース・ヘリングなどの著名人なども多く亡くなり、だれもがエイズの猛威に恐れおののいていたんだ。
有名な人が流行り病で亡くなるって、ショックよね!
コロナで志村けんさんが亡くなったときはショックだったもん!
1990年末までにアメリカでは12万人以上のAIDS患者が亡くなっていて、朝鮮戦争とベトナム戦争でのアメリカ人の戦死者数を上回っていると言われているんだ!
戦争で亡くなった兵隊さんより多いって…
CDC(国立防疫センター)の報告によると、1991年には約100万人のアメリカ人が感染しているんじゃないかと言われていて、1992年には25歳〜44歳のアメリカ人男性の死因のトップになってしまうほどだったんだ。
本当に絶望的な状況だったのね…
ミュージカル「レント」
その当時の様子を描いているオススメの映画があるんだ。
へえ〜!
「RENT(レント)」というミュージカルで、ブロードウェイでヒットして、映画にもなってるから、レンタルショップやネット配信しているから、興味があったら、ぜひ!
うん、探してみるね!
ウイルスの発見
1982年にAIDSと命名された翌年の1983年、フランスのパスツール研究所のチームがAIDSの原因となる可能性のあるウイルスを発見して、翌1984年にはアメリカの国立がん研究所のチームもAIDSの原因となるウイルスを発見して、ワクチンへの期待が高まったんだ。
でも、まだワクチンって、できてないよね…
そうね、AIDSのワクチンは研究はされているけど、未だにできてないね。
でも、ウイルスが特定されたことで1985年にはHIV感染の検査が始まり、初めての治療薬のAZTも開発されたんだ。
ようやく光が!
日本人が開発した初の治療薬!
初めてのAIDSの治療薬を開発したのは日本人だって、知ってた?
えぇ〜、そうなの???
すごい!!
開発したのは、当時アメリカの国立がん研究所でHIVの研究をしていた満屋裕明先生なんだ!
日本人として誇らしいね!
AZTが治療薬として承認されたのは2年後の1987年。
といっても、AIDSが死なない病気になるのは、HAARTという多剤併用療法が開発される1997年まで待たないといけないんだ。
そうなのね、まだ時間がかかるのね…
それまで、いろんな薬の開発も進むけど、薬代が高価だったり、大量に飲まないといけなかったり、強い副作用があったり、ある程度時間が立つと薬剤耐性を持ってしまったりと、治療の決定打にはならなかったんだ。
なかなかすぐにはいかないのね…
そのため治療としては、HIVに感染した人には、いかにAIDSの発病を遅らせ、AIDS患者には、いかに苦痛を減らし、安らかに死を迎えられるかが中心だったんだ。
本当に厳しい時代だったんだね…
厳しい差別と偏見の時代
HIVに感染すると、いずれAIDSを発症して死んでしまうという時代、ゲイ男性や薬物使用者や黒人、移民などのマイノリティの人の感染が多く、もともと差別や偏見を強く受けていた人たちなので、それは激しいバッシングがあったそうなんだ。
うぅ…、辛い…
激しい差別や偏見の中、次々と病に倒れていく仲間に対して為す術もなく見守るだけ、いつ自分がHIVに感染してAIDSを発症してしまうかもしれない恐怖、そんな中で生まれたのがレッドリボンなんだ!
なんだかとっても切実なメッセージだったのね!