ケンちゃんとリボン先生のHIV・エイズ基礎講座
「2021年はレッドリボン30周年」編
Lesson 5-3ビジュアル・エイズの始まり
我慢の限界!
HIV感染はアート活動をしている人たちにも広がり、若いアーティストたちが日常的に次々にAIDSで亡くなり、当時を知る人は「まるで戦争に巻き込まれたようだ」と言っている。
確かに戦争のよう…
ゲイでHIV感染やAIDS発症と分かると、仕事を解雇されたり、住まいを追い出されたり、家族からは勘当されたりして、医療を受けることもできず、存在そのものが許されない状況だったそうなんだ。
ひどい、ひどい…
そんな非人道的で絶望的な状況での無力感が溜まりに溜まって、「もう我慢できない」という怒りに変化していったんだ。
あまりに理不尽だもんね!
ビジュアル・エイズ誕生
そこで1988年、「何か自分たちに出来ることはないのか?」と4人のアーチストが集まったんだ。
ほほう!
彼らはニューヨークを拠点に活動するアーティストたちで、アート活動を通してメッセージを発信していこうと思ったんだ。
自分たちの特技を活かそうということね!
そこでビジュアル・エイズというグループ活動を始めたんだ。
エイズを可視化って意味ね!
目的は、アート活動を通してエイズの犠牲者に対する死の尊厳を回復させ、エイズ患者への否定的なイメージを挽回しようということね。
賛成〜!
当初の目標は2つあって、まず1つめは、エイズで亡くなったアーチストたちの作品を撮影して記念に残すこと。
きっと志半ばでエイズで亡くなったアーチストはたくさんいたんだろうね…、すごく大事なことだと思う。
もうひとつは、恐怖心を煽ってエイズ患者の人間性を奪うようなメディアの報道に対抗すること。
新型コロナでメディア批判って日本でもよく言われるよね。
今回のコロナだけじゃなくて、エイズでも日本のメディアはひどかったんだよ!
それは、また別の機会にお話するね!
は〜い、よろしく!
第1回「アートのない日」
ビジュアル・エイズの最初の大きなイベントは1989年の「アートのない日」ね。
アートのない日?
当時、制作されない芸術作品や、中止になったアート・プロジェクトがたくさんあったんだ。そこで、ギャラリーを閉鎖したり、作品にカバーをかけたりして、それをメッセージとして発信したんだ。
へぇ〜!
この試みは大成功で、MoMA(ニューヨク近代美術館)やフィラデルフィア美術館など約675団体が参加し、メディアでも大きく取り上げられたんだ!
すごい!
この大成功を受けて何度も開催され、1997年には「アートのある(ない)日」と名前を変えて、アートの積極的な役割を発信し続けているんだ。
エイズとアートなんて、あんまり考えたことなかったな〜!
ビジュアル・エイズの活動がどんどん広がっていき、参加メンバーも増えていくと、一般市民も巻き込んで記憶に残るような新しい方法はないかと模索し始めたんだ。
なるほど!
「光のない日」
1990年の2回めの「アートのない日」には、「光のない夜」を企画して、マンハッタン中のビルや橋などのすべての照明を落として、亡くなった人への追悼としたんだ。
すごい!
企画もスケールが大きいし、マンハッタン中が協力してるってのが、またすごい!
19時45分から20時まで、ニューヨークのすべての建物が暗くなり、20時になるとすべての建物に一斉に灯りが灯るんだ!
「街は傷ついているかもしれないが、街は生きていて、人々がそこで生活している」という強烈なメッセージになったんだ。
なんか、感動的!